佐倉での練炭生産の段取り <C2395>
木野子村から吉見治右衛門様の屋敷へ戻ると、治右衛門様はすでに下城して部屋着に着替え寛いでいた。
義兵衛は座敷へ行き、村へ行ってきたことを報告した。
「それは、見事に先回りしましたな。
御家老様に、佐倉で練炭作りをするべく説得をしたところ、とりあえず1ヶ所、木野子村で毎日5000個の練炭を作ってもよいとの許可を得ることが出来ました。
その具合・結果が良ければ、藩として少しずつ練炭を作る場所を増やすことを考えても良い、とまで仰られたのだ。
ただ、資金の後援についてはとても無理な相談じゃった。まあ、内情を知る勘定方のワシでも、そもそも今までにない事業に藩から費用を出させる訳がないし、むしろ諌めるべき立場と思っておったがな。それで、最初に必要となる資金は我が家からの持ち出しになる。
御家老様の話を平たく言えば『藩としての事業ではなく、吉見家の内職という格好で始めよ。内職することを藩は認める』ということなのさ。
それで、まずは吉見家として工房を立ち上げ、毎日500個作ることから始めたい。それならば、比較的小人数でも始められよう。工房も4棟でなく、普通の納屋で良い。1ヶ月位の作業で約500両にもなる金子を江戸の薪炭問屋から受け取ることができるようになったことを見せれば、周りの目も覚めるじゃろうて。そして、確かに稼げるなら、我が家が負担する少々の借財はどうということもなかろう。まあ、その少々の借財というのも、家にとっては実に苦しい所なのだがな。
ただ、どれ位必要かはこれからの算段なので、経験者である義兵衛の知恵を貸してもらいたい。
そうさのぉ。昨夕ざっと見積もったところでは金200両といったところかな。ただ、規模を縮小して始めるので100両あればなんとかなると見ておる」
どうやら想定していた通りの話の流れになってきた。
ただ、個人の内職として始めさせることで藩としてのリスクを回避させるあたり、やはり並の御家老様ではないようだ。
そして、早く実績が上げられることが肝要として、思い切って目標を縮小した治右衛門様も大したものだと感じた。
「知恵はいくらでもお貸しできます。ただ、実際に練炭を作るとなると結構な人手がかかります。製造作業をする者達は、どういった方々になりますでしょうか。
実は名内村で練炭作りを村人に教えているのですが、金程村から連れて来た熟練者が女・子供だったので、最初にかなりの反発がありました。そういったことがあったので、練炭を作る作業を指導するのが私より大分若い子供のような者になることを予め判っていて欲しいのです」
「うむ。そのことも御家老様に相談をした。
最初は、大きな事業ゆえ、主だった家臣で担当するよう話をしたのだが、それでは無理と言われた。
『各家で部屋住みとなっている者達を集め、その中から事業に賛同してもらえる比較的歳の若い者を募るのが良い』とのことじゃ。
事業の中身・作業してもらう内容が木炭加工で、その作業がどのようなものであるかを具体的に示し、その上でワシより格下の家から選ぶのがコツなそうな。内職を手伝わせるのだから、各家で持て余しているものを引き取って働かせるのは一石二鳥であろう。
とりあえずは工房ではなく、この屋敷の庭で実演したほうが良いと思うのだがどうかな」
これは上手い方法だ。
木炭で真っ黒になる汚れ仕事、という内容を最初に見せておけば、意欲のある者しか応じないだろう。
しかも、日産500個という最初の目標は、決して無理な数値ではない。
そして、人が集まらなければ、百姓から奉公人を募っても良いのだ。
ともかく事業を創め、成果である利益を、まずは藩ではなく吉見家に集めて見せることで注目を集め、その勢いで藩の事業として採り上げていってもらう方向で話がまとまった。
「資金の100両については、私から用立てましょう。私もおおかたその程度の費用と見ておりました。お金は練炭で儲かった利益の中から、幾ばくかの利息をつけてお返しして頂ければ良いのです。実は、私は練炭を卸す先である薪炭問屋・萬屋さんとの縁があり、多少融通が利くのです」
治右衛門様の顔色が変わった。
「では、萬屋さんに藩が借財を申し入れたいのだが、お受けして頂けますか」
これは迂闊なことを言ってしまった。
この時期、旗本や御家人だけでなく、どの藩も、いや幕府でさえ財政難で苦労していたのだ。
勘定方としては、借財できる場所がひとつでも増やしたいところなのだ。
「いえ、私が口を挟めるのは木炭と練炭の取引にかかわる部分に限られております。元々、木炭加工品の取引でつくった縁ですので、その枠を超える口出しは出来ません。もし、どうしてもということであれば、ある程度の練炭を卸してから、萬屋さんの主人・千次郎さんにかけあってみてください。
ただ、御大名様と直接取引の少ない薪炭問屋では、両替商や札差・米問屋さんの所のような真似はとてもできません。なので、その件は平にご容赦ください。ただその代わり、練炭で大儲けすることのお手伝いは存分にさせて頂きます」
どうにか納得して引っ込めてもらいはしたが、危ない所だった。
その後は話が変わり今後の予定を詰めることとなった。
そして、4日後の閏7月2日に吉見家の中庭で実演することを決めた。
明日には名内村に戻り、人と道具を送り込む手はずを整えなければならない。
さらに、佐倉と江戸の13里(52km)という距離も1日の行程としては厳しいが、御殿様への報告を欠かす訳にもいかない。
いずれにせよ、明日からの強行軍に備え体を休めることとした。
座敷を退いた後、治右衛門様は覚えがある者に声をかける算段をずっとしていたようだ。
■安永7年(1778年)7月28日(太陽暦8月20日) 憑依169日目
3日前に佐倉城下と名内村を往復したばかりだが、早朝から同じ道をたどり名内村へ急いだ。
村では相変わらず苦闘しながら練炭の生産に励んでいるようだが、以前に比べると習熟してきているのか、手際よく働いていることが見てとれる。
義兵衛は助太郎と佐助さんを呼んで事情を説明した。
「3日後に、佐倉城下の吉見様の御屋敷で練炭作りの実際を見せることとなった。それで、その前日だが道具一式と木炭・粉炭を運んで行くことになるので準備をお願いしたい。一緒に弥生さんと近蔵も来てもらいたい。それから、道具運びであと2人ばかりが必要になるので、秋谷さんと血脇さんに話をする。できれば、佐倉藩で木炭加工を一緒に指導できる者が良いので、推薦してくれ。
それから佐助さん。佐倉城下に近い木野子村で炭焼き窯を使った木炭作りを、そこの名主の彦次郎さんに教えて欲しい。今回は顔合わせ程度だが、ここでの指導が終わってから皆を連れて行って欲しいのだ」
「義兵衛さん、この村での皆の作業はもう片付けに入っていますよ。3日後なら細山村の樵家の者は皆動けます。荷物持ちならワシ等がしますので、名主の秋谷さんや工房の血脇さんに助けを請う必要はありませんぜ。
それから、佐倉に出向いたら日当の割り増し金をよろしくたのみますよ」
佐助さんの言う通りだ。
もうこの村で新たな指導の必要はなく、品質を見張る目付を残す位で良いのかも知れない。
里から連れて来た面々がいなくなるとどうなるのか、を見る良い機会かもしれない。
義兵衛はその考えを助太郎と佐助さんに伝え了解を得ると、秋谷さん・血脇さんに事情説明をした。
「明後日の閏7月1日に一度この村から佐倉へ行き、練炭作りに関係する弥生さんと近蔵は3日には戻ってきます。3日間留守にしますが、これは事業を独立させる良い機会ととらえてください。その間に作られた製品の質・歩留まりで、今後の指導を考えましょう」
よそ者が徘徊することに違和感があったのか、二人はすぐさま同意してくれた。
ただ、佐倉へここの村人を出す件は、どうしても了解されなかった。
「今でも手一杯です。今言われた一番優秀な者を佐倉に連れて行くなんて、とんでもありません」
こう言い切られてはどうしようもなく、交渉はここまでとなってしまった。
どうやら2日の実演は、連れて来た里の者だけで済ませるしかないようだ。
時間を惜しむ義兵衛はこの答えを聞くと、後を助太郎に頼み江戸へと向った。
おそらく松戸の渡しを超えるあたりで日が暮れるに違いないので、提灯の用意も抜かりなく済ませている。
ただ、江戸の入り口にある大木戸や、御門や木戸などで制止された場合は、そこで休む心算も固めていたのだ。
どうにか本日分の投稿は済ませることができましたが、2週間ほど投稿できないため休みます。
(ストックがないため、予約投稿もできませんでした)
また、感想についても返信できる状況にないので、無応答となることをご承知ください。
次回のupは何事も無ければ2月21日0時のつもりでいます。




