名内村に連れて行くと <C2390>
この小説の投稿を開始してから丁度2年を過ぎました。ここまで続けることができているのも、読んで頂いている皆様あってのことだと感じております。感想やコメントを通して続ける力を頂いたり、誤字報告して拙い文をチェック・連絡頂けたりと、恵まれた環境に大変感謝しています。まだまだ駆け出しで勉強中ではありますが、よろしくお願いいたします。今年こそ、この小説に決着をつけ、次作を出したいと考えています。
佐倉藩・勘定方の吉見治右衛門様は、練炭が売れないことを心配していた。
「まず思い起して頂きたいのが、冬場の寒さです。それぞれの家でもそうですが、家屋は夏にこそ凌ぎ易いという条件で作られています。
そのため、冬場は家の中が相当寒くなっていたのではありませんか。囲炉裏の火だけでは、部屋が暖まらないでしょう。また、お城の中やお勤めされている建屋、お寺の本堂など、かなり冷え込んでおりませんでしたか。夜番などされた時、凍えるような感じにはなりませんでしたか。いつも、ということではないかと思いますが、冬の間、雪の降ったときなど、暖が欲しいと願ったことはありませんか。
そういった時に足元に七輪があって、そこに火が燃えている練炭があれば随分と耐え難さが変わります」
「しかし、火が欲しいのであれば、火鉢と火のついた木炭があれば用は足りるであろうし、同じことではないか」
「では、そのような道具が複数用意されている所、そうですね、お城の御殿を想像してみてください。20~30ヶ所に火鉢があり、木炭が燃えています。
それぞれの火鉢の木炭が燃え尽きる前に、木炭を足す必要がありますよね。
これから作ってもらおうとする練炭は、どれも同じ時間で燃え尽きるまで約4刻(8時間)かかるという性質があります。
火鉢であれば、それぞれ木炭が燃え尽きるのがいつ、というのがなかなか見当がつきませんが、これが七輪・練炭という組み合わせであれば簡単にわかるのです」
義兵衛の言葉の意味をしばらく考えてから治右衛門様は言った。
「最初に火を入れた七輪を見張っていれば消える寸前がわかり、あとは順番に練炭を持って回れば良いのか。火を担当する者からすれば、魅力的に見えるかも知れんなぁ。
それで、江戸でどこへどれ位売り捌くつもりなのかな」
「9月から売り出しをしますが、その時点で七輪はおおよそ4~5万個積んでいます。年末までに更に3万個程度追加で作ります。勿論、売れ行きによっては増産することもあるでしょう。
一番七輪が使われるのが12月、1月頃と考えており、少なくとも6万個の七輪が毎晩使われると考えています。
そうなると毎日6万個必要となります。ところが、金程村と名内村で作れるのは12000個でしかないのです。これでは練炭が不足するのは目に見えています。当初、需要時期までに練炭を作り貯めておけば足りるのではないか、と考えていたのですが、9月までに生産できる累計は70万個にしか過ぎません。3ヶ月も延々貯め込んで、12日分にしかならないのです。使ってしまえば、それまでです。
そういった理由で、せめて5万個は作れる工房が必要なのです。
売り先は、まず馴染みのある料亭になるでしょう。お座敷毎に置かせるのが狙いです。
つぎに、寺社を考えています。お堂や講堂に置かせます。他には、町中の木戸番所、吉原などの岡場所も狙っております。そして、お城にも置かせることを考えております。
どこも暖があれば、寒い冬場も過ごし易くなります。
最初は、要所に数個無償で配ります。それを見た者が便利さを感じ、買い求めるという策を打ちます」
治右衛門様は渋い顔をし、諭すように話した。
「義兵衛と申したな。無償で配るのは間違いじゃな。
無償で貰った者は、価値が判るまで扱いが雑になるであろう。なぜタダだったのかのカラクリを判ってもらう必要があろう。まずは、その工夫が足りぬと見た。
無償で貰えなかった者の扱いは難しい。便利を感ずるほど、なぜ自分の所は無償で貰えなかったのか反感を抱くであろう。そのような者が果たして買いに走るかのぉ。
そして義兵衛殿。問われるままに、このような愚かな策を話すのは、いかがなものかな。
義兵衛殿の言わんとする所は判ったが、その話に乗っかるとどうかは別のことじゃな。
これはいずれにせよ、今月から練炭を作り始めたという名内村に行って確かめねばならぬ。幸い名内村はここから6里ほどの場所であろう。
今日はもう遅いゆえ、明日一緒に見に行こうではないか」
どうやら返答で余計な猜疑心を引き起こしてしまった様だ。
それならば実際に見て、名主の秋谷さまから話を聞いてみる、というのはとても良いことに違いない。
■安永7年(1778年)7月25日(太陽暦8月17日) 憑依166日目
早朝、治右衛門様は中間の者を1名連れ、義兵衛と安兵衛さんを伴い佐倉城下の武家地を出た。
鹿島橋を渡り臼井を通り、井野・下高野・保品・神野・脇平戸と印旛沼の南岸を沿う道を進み、沼地に突き出したような平戸・佐山に渡り、更に北岸の安養寺に渡る。
そこから、谷田・清戸へ向かい神々廻を通って木下街道の白井宿に着く。
後は北上して河原子を通り名内村に到着する。
道中は、印旛沼につながる小川や谷戸を何度も越えるため、登り下りが多く、また低地では沼然とした場所に丸木を並べた道を辿ることもあり、意外に楽ではなかった。
前に、富塚村の川上右仲さんに、佐倉への木炭供給を頼んだことがあったが、このように難所が多いのであれば、まだ江戸に行くほうが楽と思えるほど苦労があった。
佐倉への道は晴天の時でこの様子なら、雨天ならとても物を運ぶなどというのは無理な相談だ。
もっとも、鎌ヶ谷から南下して船橋まで行き、そこから佐倉街道を辿れば比較的平坦で雨天でもどうにかなるようなことも聞いた。
ともかく、治右衛門様一行の4人は皆健脚で、2刻(4時間)で名内村の名主・秋谷さんの屋敷に到着することができた。
屋敷の敷地に入るなり、治右衛門様は感嘆の声を出した。
「ほぉっ。これは面白い。
普通の百姓の名主家とは全然違う庭ではないか。
確かに中庭はあるが、それを取り囲んで小屋が立ち並んでおる。煙を上げている小屋もあり、これはまるで一面鍛冶屋のようじゃ」
義兵衛は治右衛門様を、もはや椿井家知行地からの出張所然となっている代官所の建屋に案内した。
そして、木炭を運んでいた村人を見つけ、名主・秋谷修吾さんと血脇三之丞さん、それに助太郎を呼んできて貰う様に頼んだ。
呼んだ3人はまとまることなくバラバラに、助太郎・三之丞さん・修吾さんの順に現れた。
3人揃ってから挨拶をする。
「こちらは、佐倉藩藩士の吉見治右衛門様です。佐倉藩で練炭を作ることの可否を判断するにあたり、先行して作っている名内村の様子が参考になると考えお連れしました」
この義兵衛の言に血脇さんが噛み付いた。
「それは変です。練炭を作ることによって得る利益を守るため『他の者には教えない』という方針と思っていました。
どこで『見せても良い』と変わったのでしょうか」
それには助太郎が答えた。
「佐倉藩で練炭を作らねばならないのは、この名内村での生産量が足りぬからに他ならないのだ。江戸では七輪を5万個以上売られ、それが日々練炭を消費しおり、せめて同等の生産量がなければ練炭が枯渇する。『練炭が不足して七輪による暖があてにならない、という事態は避けよ』が我が殿様からのお指図なのだ。我等家臣は、その下知に従わねばならぬ。
一旦、佐倉藩で作るということが決まれば、どこかの工房で作り方を見てもらわねばならんのだ。お主等も、金程村の工房へ連れていって経験したであろう。あれと同じようにすることとなる。佐倉から金程に行くより、ここ名内に連れて来たほうが早かろう。
それとも、今やっと達成している日産5000個を、すぐさま10倍の5万個にできると言い張るのかな」
いつも増産を急いている助太郎の言いように、三之丞さんだけではなく修吾さんまで黙って俯いたのだった。
追いかけられるように執筆している関係で、小説の真ん中で日を跨いでしまいました。
相変わらずのストック0で、これから1月27日・月曜日投稿分の執筆です。




