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佐倉城御殿で最初の会議 <C2388>

 ■安永7年(1778年)7月24日(太陽暦8月16日) 憑依165日目


 佐倉藩江戸上屋敷から御領地に戻る御家老の一行の中に、義兵衛と安兵衛さんが混ざっていた。

 義兵衛は昨日の内に事情説明のため萬屋へ行き、ついでに本宅によって小判50両を持ち出していた。

 切り餅と俗称するところの25両の紙包み2個を安兵衛さんと分け、それぞれの懐深くにしまい込んでいたのだ。


「何かの事があった場合に使おうと準備だけはしておいたほうが良い」


 安兵衛さんにとっては大金なのだが、目的があるお金ではないので、分けて持つことに問題はない。

 むしろ紛失や盗難に対するリスク分散になるのだ。

 さて、江戸上屋敷から、佐倉城までの道のりはおおよそ14里(56km)である。

 徒歩では歩き続けて10時間はかかり、この炎天下ではいかにも厳しい。

 だが、水運が盛んな江戸ならではの移動手段として、川船を使う手があったのだ。

 そこで、一行はまず築地にある佐倉藩の中屋敷を目指して進む。


 佐倉藩の下屋敷は渋谷(現:広尾の日赤医療センター)にあるが、中屋敷は築地にありその裏手(現:築地警察署向かいの亀井橋公園)にある築地川を辿ると海に直接出ることができる。

 中屋敷は、通常御殿様の隠居所にしたり、継嗣の居住場所になるのだが、佐倉藩ではこの中屋敷が佐倉藩の物資の荷揚げ場となっており、補給の拠点となっている。

 屋敷の南側にある岸には藩の御用船が大小合わせて数艘準備されていた。

 そして、今回の御家老の帰郷には足が速く平底で比較的細長い小さめの川船が用意されていた。

 一行が川船に乗り込むと、船首に堀田木瓜ほったもっこうの家紋が大書された旗をかかげ、岸を離れた。


 築地川にかかるいくつかの橋(相引橋、軽子橋、境橋、明石橋)をくぐり、江戸湾に出る。

 そこから、佃島・石川島と霊岸島の間を通り、隅田川にかかる永代橋を潜って新大橋手前の堀川・小名木川に漕ぎ入れる。

 この小名木川は、中川と隅田川を結ぶ1里半もの直線運河で、江戸の物流を支える重要な輸送路となっている。

 荒川や利根川の上流との物流だけでなく、銚子から関宿まで上ってから江戸川を伝って行われる物流は、海が荒れて房総半島を回る航路が使えない場合に重宝するのだ。

 ただ、小名木川は水深が浅く、ある程度水深が浅いところでも使える高瀬船であっても通過できない。

 このため、小名木川に接続する中川では、上流から来る荷船を船番所の所ではしけ船に積み替えている。

 そして、この番所で小名木川を通る川船の積荷と人を検めているのだが、堀田木瓜の家紋を掲げた佐倉藩の御用船と見取ると、進路を空けて早く通れと言わんばかりの合図を出してくる。

 実は前日に藩船が通過する旨の通知を番所に出しているのだ。

 この通知を怠ると、番所のお役人が船を止めて中を検めるので時間がかかるのだ。

 今回は遠目でも一行の中に女人がいないことを見せてそのまま進む。

 中川の向こう岸の、船堀川に入り、船堀川を抜ける。

 そこは江戸川であり、少し遡った本行徳で船を降りた。


 本行徳からだと、佐倉城までの道のりはおおよそ8里(32km)となる。

 川船で6里分の距離と時間を稼いだ格好なのだ。

 さて、この行徳という地は製塩業が盛んで、塩を江戸に運び込む関係で、江戸と本行徳の間は結構船便がある。

 そして、江戸川を使って上総国から製塩に使う薪がこの行徳に届くのである。

 また、江戸で流行っている成田山詣でも、この行徳か更に上流の市川まで川船を使うと大層便利なのだ。

 こういった理由で、川船の往来は激しく、荷の積み降ろしで行徳は結構栄えているのであった。

 もちろん、千住大橋を渡り、市川で渡し舟を使って関を通り、千葉街道を船橋まで歩くという手段もある。

 むしろ、庶民はこの道を使うのが普通だが、この炎天下、佐倉まで急ぐには川船が大層都合良いということを実感したのであった。


 行徳より先は船橋宿へ向かう。

 この船橋宿は御殿様が佐倉から参勤交代で江戸へ向かう時に宿泊し、ここで隊列を直す定宿なのだが、日のある内に佐倉城に入るべく小休止しただけで一行は足早に佐倉街道を進んだ。

 船橋と佐倉はわずかに7里半(30km)であり、まだ昼前という時刻からすると昼の時間がまだ長い今の時期であれば充分間に合う目算なのだ。

 そして、佐倉街道をひたすら進んだ御家老の若林様一行は、まだ日のある内に城内の御殿に入ることができたのだった。


 御殿の中では、一番手前の身分が低い者がお目通りする際に使われる座敷に通された。

 しばらく待っていると、御家老の杢左衛門様がひとりの家臣を連れて座敷へやってきた。


「この者は、勘定方の吉見治右衛門よしみじえもんである。此度の件については、治右衛門を専任として付けるので、ここで存分に話をしたい。なお、そのほう2名は治右衛門の客とする。城での勤めが終わる時に一緒に下がれ」


 御家老としては自分が直接かかわるのではなく、相応の担当に丸投げしたのだ。

 上手くいけば御家老の手柄だし、失敗すれば勘定方の担当が冷や飯を食う、というしごく真っ当な待遇なのだ。

 御老中様経由で御殿様に伝わった件ですらこの扱いなのだ。

 もし、当初義兵衛が具申した『奏者番同僚からの申し出』という順で進めていたら、とてもこういった所まで辿り着くことができなかったに違いない。

 義兵衛と安兵衛さんは治右衛門様に簡単に自己紹介し、それを皮切りに今回の木炭加工の概要を説明した。


「それで、この佐倉藩で作り出した練炭を江戸へ送り、薪炭問屋の萬屋に卸します。

 萬屋では、1個130文を佐倉藩からの買い付け金として季末に支払うことになります。

 原料となる木炭は、練炭1個あたり350匁使いますので、原料だけのことを考えれば20文の木炭に110文を上乗せすることになります。

 もっとも、その前段階となる木炭ですが、1俵4貫の木炭を200文だろうと思っていますが、実のところその元となる木材はせいぜい4束16文なので、184文の上乗せを最初にしているのです」


 話がお金を使っての取引のところに差し掛かると、御家老の杢左衛門様は卑しいものを見る顔つきになった。

 その様子を見て、江戸の上屋敷で御殿様が『御耳汚しで恐縮でございますが、勘定の話となります』と前置きしたことを思い出した。

 労働に対する対価、という考えはあまり馴染まないに違いない。

 日光山本坊の修繕の時に、金銭の苦労をどう受け止めたのか、少し不思議に思った。

 ひょっとすると、13万両(130億円)の借金でよほどイヤな思いをしたのかも知れない。

 治右衛門様が口を挟んだ。


「御家老様におかれましては、今日は江戸から一泊もせずに来られたので、大層お疲れのことかと存じます。

 詳細は今宵の内に我が家にて聞き出しておきますので、とりあえず今日はお開きにしてはいかがでしょうか」


 御家老様がこの進言に頷くと御殿での会談は終わり、治右衛門様に連れられて佐倉城を後にしたのだった。


泥縄式ですが、江東区中川船番所資料館へ行ってきました。「常設展示図録」が結構充実している資料集で思わず購入してしまいました。現在は佐倉藩資料を集め始めているのですが、やはり現地へ行くべきか思案しています。

ただ、筆が進まず、月・水・金の投稿ですが、今できません。折角アクセス数が回復してきているのに残念ですが、ご容赦ください。

・お願い:小説内容への疑問を誤字報告機能で連絡頂くと対応が困難です。できれば感想の「気になる点」「一言」にて連絡頂ければと思います。

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― 新着の感想 ―
[一言] 佐倉には、国立歴史民俗博物館があるので、行かれてみては? 江戸時代の資料もあるようですし。
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