行く道で見た鎌ヶ谷大仏 <C2382>
■安永7年(1778年)7月18日(太陽暦8月9日) 憑依159日目
まだ日が顔を出すか出さないかという早朝に屋敷を出て、義兵衛と安兵衛さんは名内村へ向った。
この夏の暑い最中、日が高くなってしまっては道中を歩くのは難しい。
一番暑くなる時間帯は、木陰にでも入って休憩する方針なのだ。
名内村までは約10里の道のりではあるが、道から少しはずれはするものの、今評判の鎌ヶ谷大仏を見よう、と考えていた。
そこならば、おおよそ8里あるかないかの距離なので、丁度昼頃には鎌ヶ谷に到着することができる。
道は、松戸から馴れた鮮魚街道ではなく、南側にほぼ並行して通っている木下街道を選んだ。
そして、道中は主に田の様子を見ながら進む。
「今年はなかなか暑くならず、稲の生育がどうなるか心配だったが、このところの暑さで少し取り返したような気がする。この分であれば、ここいらは平年並みの収穫はできそうだ。あとは、洪水や野分(台風)のような収穫時期での災害が来ねば良いのだがなぁ」
義兵衛がそう漏らすと、安兵衛さんが応じる。
「義兵衛さんは百姓だったので、やはり米の出来が気になっていたのですね」
「いや、それもありますが、それだけではないのです。今年の秋に籾米500石ばかり購入する約束を米問屋としているのです。もし不作ということになれば、買い入れる米が値上がりするだろうと心配しているのですよ。飢饉対策として、里に新しく作った米倉に積む必要があります。おおよそ500両の籾代と荷運び費用を見こんでいますが、それで府中宿近辺で集荷したものを受け取る算段になっています」
この米を買い入れるお金を工面するというのが、木炭加工に手を染めた契機なのだが、それを忘れてはならない。
安兵衛さんは軽く頷いていたが、義兵衛は夏が来るのが遅かった分、凶作となることを結構心配していたのだ。
このような話をしながら、前回使っていた鮮魚街道ではなく木下街道を進んで行き、やがて鎌ヶ谷宿にさしかかった。
この鎌ヶ谷宿には、2年前の安永5年(1776年)に開眼供養したばかりの青銅製の大仏があり、その開眼供養にあたっては義兵衛の馴染みとなった八百膳から300膳もの料理を施主が注文した、という逸話を聞いている。
大仏というからには、高さが約11メートル程もある鎌倉・高徳院の大仏を想像していたが、想像とは大きく違っていた。
高さは1間(1.8メートル)の鋳造青銅製釈迦如来座像で、2尺(60cm)ほどの台座の上に乗っている。
周辺に参拝する人だかりが無ければ、あまりにも思っていた印象と違ったことで見落とすところだった。
「これが話題になっている鎌ヶ谷大仏か。開眼供養の賑わいが江戸で評判になっていなければ、大したこともない極普通の如来像だろう。しかし、人の噂になりさえすれば、自分のようにこうやって見に来ようとする者も出る。
開眼供養を派手にすることで、それからの人出を誘ったのか。話題になるというのは、威力になるのか。なるほどなぁ」
そういった感想とは別に、大仏様に今年の稲の豊作を願い手を合わせた。
そして一通り大仏を拝顔した後、鎌ヶ谷宿の一膳飯屋で1刻(約2時間半)程のんびりとする間にこういった話をして、夏の一番酷い熱波をやり過ごした義兵衛は、それから1刻後に名内村へ入っていった。
工房として与えられていた納屋は確かにそのままだったが、周囲に3棟も小屋が建て増しされていた。
そして、義兵衛は工房の主となる建屋・元納屋へ入っていった。
「これは義兵衛様と安兵衛様ではございませんか。突然にお越し頂いた訳は何でございましょうか。
こちらに居る助太郎さんや佐助さんから、何か連絡が行ったのでしょうか。それとも名主の秋谷さんからでしょうか」
工房の責任者である血脇三之丞さんが目を丸くしながら駆け寄り、こう話しかけてきた。
「いえ、私の御殿様からの指示で、助太郎と相談せねばならぬことができました。場合によっては、助太郎には早めに里へ戻ってもらう必要があるかも知れません。時間があまりないのです」
三之丞さんは、建て増しした小屋に居る助太郎の所まで案内してくれた。
一緒にいて聞きたそうな素振りであったが、里にかかわることなので、と同席を遠慮してもらった。
義兵衛、助太郎、安兵衛の3人で代官部屋に入り、周囲に人気がないことを確認してから説明を始めた。
「御殿様から練炭不足を指摘されている。御殿様は年末に稼動している七輪と同数の練炭を日産できる見込みがないと、この商売は上手く回らなくなる、と言っているのだ。そのため、年末までに10万個製造する予定だった七輪を7万個製造に下方修正した。
それで、名内村での生産があっても追いつかないであろうから、新たに委託製造する拠点を作れ、と仰せなのだ。
候補は佐倉藩11万石で、私がここに来ている間に御老中様を巻き込んで、藩主の堀田正順様と面談する手はずを整えようと動いて下さっている。
金程村の工房では、普通練炭換算で日産2500個だろう。ここ名内村では、日産1万個が目標だろうが、そこはどうなっているかを、まず聞きたい。
まあ、目標を達成しても合計12500個では2割程度の生産量なので、御殿様の感覚では『焼け石に水』ということなのだろう」
義兵衛は御殿様自体が御林奉行になって、直接手を下す可能性があることは伏せた。
「うむ、御殿様から言われてしまっては仕方ないのかなぁ。しかし、練炭を使わない夏場でも、販売した七輪の数量と同等の数を生産するというのはどうかと思うのですがね。来年の春までに使われる練炭の総量を算出しておいて、累計でトントンとなれば良し、という考えにはできないのでしょうか。もっとも、使われる総量なんぞ、今年の年末を経ないと判らないのでしょうけど」
助太郎は、相変わらず合理的な考えから説明をした。
「しかし、6日間毎日12500個を作ってこれを積み上げても、たった1日で消費してしまうのだから、御殿様の考えもあながち間違いではなかろう。売り出しまでにあと100日程度あるが、これから作る分を全部蓄えても15日分でしかない。少し足りないどころの話ではないのだ。それより、ここの状況を教えてくれ」
助太郎は渋々といった感じで話し始めた。
「製造工程の途中に品質検査の関所を設け、そこで不合格を出して最終製品の品質を上げる方法は、やっと理解して貰えるようになりました。直行率(製品が品質基準を満たして合格するレート)は、7割に近い数字になってきています。今はどうにか日産5000個を越えたところまで来ました。それで、どうにか年末までには日産1万個がやっと見えてきた所です。やはり、大人が本気でかかわると早いです。
ただ、問題は原料となる木炭の確保で、木炭の原料となる木を今この村の中では手当てできないのです。だいたい、秋口に伐採して乾燥させた木材を木炭の原材料にする必要があるので、この夏場に伐採しても、それが直ぐ木炭に化ける訳がありません。生乾きの木を幾ら焼いても良い木炭にはならないのです。
それで、結局のところ、富塚村の川上右仲さんに供給を依頼しています。一応、原料となる木炭が不足するので、村の外から買い入れることになる、という話は、この工房の責任者である血脇三之丞さんと、名主の秋谷修吾さんに説明して了解を貰っていますが、その分卸した練炭からの実入りが減るという話はできておりません」
素早く製品を作れるようになるために、助太郎は名内村に滞在して指導しているのだ。
卸した費用がどうなるか、ということは、この知行地の主人である旗本・杉原様にも了解を得ておかねばこれは大変なことになる、と思った。




