癒されている義兵衛 <C2380>
2020年の初投稿です。本年もよろしくお願い致します。
今年こそエタらないように、決着をつけます。ご指導、よろしくお願いします。
■安永7年(1778年)7月15日(太陽暦8月6日) 憑依156日目
越中守(松平定信)様から田安家御家老に推挙されようとした話は、奥方様と紳一郎様しか知らないはずなのだが、御屋敷の中は奇妙な程明るい。
家臣だけでなく、奉公人まで、いつもと違って輝いて見えるのだ。
御殿様が登城してしまい、夕刻まで主人不在状態なのだが、この暑さの中、だらけることもなく皆仕事に励んでいる。
特段仕事のない暇な者でも、庭の作物の水遣りや雑草取り、馬の世話、屋敷や長屋の壊れたところの修繕と、誰に言われることもなく普段より格段に熱心に忙しく動いているのだ。
門の衛視を担当している者が、仕事の単調さに飽きてか義兵衛にしつこく付きまとい、昨日の騒ぎの顛末を聞いてきたのだが、そこは紳一郎様の名前を出してはぐらかした。
ただこのまま屋敷に居たのでは、いづれ若君様につかまって問われてしまうに違いなく、そうなると逃げにくい。
それで、義兵衛は萬屋詣でをすることにした。
店の中では、お婆様との約束通り『若旦那』の呼びかけはすっかり息を潜めたが、萬屋の息子然の扱いは続いていた。
主人の千次郎さんは、料理比べ事務方の用で八百膳へ出かけており、大番頭の忠吉さんが仕切っていた。
「義兵衛様、登戸村の中田から結構な量の練炭が届いております。この店にも1000個ほどは置きましたが、あとは七輪と合わせて八丁堀の倉庫へ納めております。
全部薄厚練炭ですが、そうですね、4万個ほど受け取って蓄えております。練炭で800両(8000万円)、七輪7000個で1800両(1.8億円)とかなりの資産が詰まっていますよ。火事にでもなったら、とてもこの店は耐えられませんな。
それで、義兵衛様には一度倉庫を点検して頂きたいと思っております。
本宅では、お婆様や華さんもおりますし、立ち寄ったついでにお話されていってはいかがですか」
確かに、店の中は手代や丁稚の視線が痛く、お互いに変なところで気をつかってしまう。
ならば忠吉さんの助言に従おうと、八丁堀の本宅兼倉庫へ向った。
勿論、いつものように安兵衛さんは一緒に来ている。
「昨日のことを御奉行様にすっかり報告しましたよ。いろいろと質問されて、結構厳しい目にあい、寝る間もないありさまです。
それはそうと、田安家の件、少しだけ聞かされました。御老中様がいろいろと手を回して通したそうです。一橋治済様は結構反発されたようですが、清水重好様が賛同側に回ってくれてどうにかなったとか。もともと御老中様は一橋様に結構肩入れしておりましたので、これから勢力図は大きく塗り変わるのでしょうかね。
詳しいことは、まだ一部の者しか知らないようですが、これから話は城内で一気に広まるでしょう。
田安家は4年間も無主状態が続いたのですから、無役の者にとっては新しい任官先ができたようなものです。御奉行様は『これから知遇を得るための越中守様詣でが始まる』と言っておりましたが、実際どうなのでしょうか。
あと、椿井庚太郎様の様子をお伝えしたところ、大笑いされておりました。『無欲にも程がある』とか言われまして、『義兵衛という懐刀があるのだから、もっと上を目指しても不自由はなかろうに。大和守(田沼意知)様のところに弟の甲三郎が居り、越中守様のところに庚太郎となれば、次の世代の家基様を囲む陣容は決まったようなものじゃな。重用されている椿井家詣でが始まるのも、もはや時間の問題であろう』などと申しておりましたよ。
裏に義兵衛さんが居ての業と、世間の人が気づくのは、一体いつになるのでしょうかね」
ずっと密着していると、このあたりのことが判ってしまうのだろうが、とりあえずは御殿様の庇護の下で、できる限り隠れていたいものだ。
そして、御殿様も越中守様の庇護の下であれば、多少は楽ができるのであろう。
たとえ、田沼意次様と松平定信様が権力争いをしたとしても、椿井家はどちらかが生き残る。
そして、今は権力争いしていたはずの二人が協力関係になりつつあるのだ。
八丁掘の萬屋・本宅に到着すると、華さんが直々に出迎えてくれた。
「このようにしばしば訪ねて頂けると、華は大変嬉しゅうございます」
華さんの可愛い挨拶に思わずニンマリとしてしまう。
「今日は、七輪と練炭の在庫保管状況を確認しに来ました。まずは仕事が先です。それが終わってから、ゆっくりさせてもらいますよ」
義兵衛は倉庫に回り、積み上げ状況を確認し始めた。
薪炭問屋の倉庫だけのことはあって、基本的に火の用心はできている。
地面を盛り土して高くしたところに倉を建てて、周囲に水桶を配置している。
驚いたことに倉の中にも水桶が置かれ、初期消火作業は問題なさそうに見える。
床を低くして木炭を敷き詰めた上に、簀子を渡して水平を出し、その上に練炭を重ねている。
ぎっちりと詰めてはいるが、練炭は4000個単位でまとめてあり、奥のほうは砂に埋めることで空気を遮断し類焼を防ぐ工夫もしているようだ。
かなりの量を蓄える予定なので、場所はまだ充分に空きがあった。
倉庫の土壁もしっかりとできており、もらい火の心配はなさそうだ。
隙間も工夫されていて、自然発熱する熱がこもることもない。
練炭が4段積みあがると、上から板で覆いをしている。
そして、二階に上がると、随所に水桶が置かれていた。
「ご覧になって、いかが思われましたでしょうかな。木炭という燃えるものを扱う店でございましょう。なので、火の用心だけは他よりしっかりさせておりますのよ。
二階の水桶は、火で床が抜けると桶の水がこぼれ、火の勢いを抑えることを見込んで仕組んでおりますのよ。それは、ここの場所を倉庫とした、わたくしの父・七蔵が始めた工夫なのでございますのよ」
後から倉庫に入ってきたお婆様が、得意げに語りかけてきた。
元の世界の所のスプリンクラーに発想が近いものがあり、その効果の程はともかく、それをやってのけた七蔵さんに驚かされた。
そう告げると、お婆様は顔を綻ばせながら続けた。
「もっとも、この二階の仕掛けが動いた験しは、まだただの一度もございませぬ。なので、無駄な工夫とも思うておるのですが、義兵衛様の目から見て、いかがと思われますかなぁ」
「そうですね。七蔵さんの着想は素晴らしいものですが、もし床が抜けるような火が出たら、ここにある程度の水桶の量で火を消すのは実際難しいでしょうね。
なので、想定と実態が釣り合っていない気はしますね。
それよりも、倉の中に樋を張り巡らせ、倉の外からどんどん水を入れるという仕組みはどうでしょう。本宅の屋根に大きな貯水槽を設けて、栓を抜くと貯水槽の水が倉の中になだれ込み、樋から豪雨となって火を消すという算段です。倉の内側から蝋で栓をしておけば、間違って栓を抜いてしまって商品がずぶ濡れという事態も避けることができます。火が出ると、天井が抜けるより先に蝋が溶けるでしょうからね。
今の倉はそれなりにしっかり対策ができておりますので、これを改造する必要はないと思います。なので、もし七輪・練炭で大当たりをとって新しく倉を作るときにする工夫、ということでどうでしょう」
倉庫での話はこれで終わり、座敷に戻ると華さんが待っていた。
「お待ちしておりましたよ。前の続きを教えてくださいませ」
華さんの好奇心は判るが、まだ真実を語る訳にはいかない。
「そうですね。私の村の近くに高石神社という神社がありました。そこに居た巫女が『近いうちに未曾有の大飢饉が起きる』と神託を下していたのです。椿井の御殿様は、その巫女を今年の春に召し出し村の館で奉公させることにしたのです。
やがてその神託が、北町奉行様を通して御老中に伝わったのです。
まあ、御老中と最初にお目にかかる前には、御神託を聞いた北町奉行所の土蔵に押し込められるという体験をしました。その時、土蔵の入り口で見張っていたのが、隣に居ります安兵衛さんなのですよ」
それから、義兵衛は土蔵に押し込められ一晩過ごした顛末の所を強調して面白おかしく語り、それを聞いてコロコロと可愛い声を上げて華さんは笑った。
たわいもない話で華さんを喜ばせると、日頃の苦労も忘れ癒される気がした。
そして、この時点ではもう残っている課題も少なくなっているので、このようなゆったりした時間を過ごしても許されると思ったのだ。
もう少し、このような平穏な日々が続いて欲しい、と願った義兵衛だった。
安兵衛「義兵衛さん、土蔵に押し込めたのは、5月30日のことですよ」
義兵衛「もう昔のことのように思えますが、そうでしたか。255話、256話の出来事でしたね」
華「あれ、まだ50日もたっておりませんよ。でも掲載されたのは昨年の2月11日、13日ですよ。
時が経つのは、ほんとうに早いものですわ。早く私を娶って、子孫繁栄を願いましょう」
おそまつさまでした




