御殿様の出世話 <C2378>
■安永7年(1778年)7月14日(太陽暦8月5日) 憑依155日目
田沼意知様からのお達しで、いよいよお上の主導により能登から『味噌岩』を東廻り航路で輸送する事業が始まることが決定した。
実際には勘定奉行の名前で関係する代官所に通達が出され、それに基づいて代官が動くのだ。
代官と言えば、商家の主人に向って『お主も悪よのぉ』と発言する悪代官がイメージされるが、実物でそのような人物にぶち当たることは珍しいのだ。
もし居るとすれば、代官に任命されるために背負った借金を返済するために、任地の商家や名主・庄屋に無理を強いる場合に限られているのだ。
このあたりは、元いた時代のサラリーマンと大差なく、本当に悪い輩は代官などという苦労が多い役職ではなく、もっと美味しい立場を手に入れているのだろう。
煎じ詰めると、要領の悪い旗本が猟官運動をした結果、代官に任命された者が外れ代官というレベルに過ぎず、後世に喧伝される心からの悪代官なぞ実は数えるほどしかいないのだ。
こういった中、賄賂ではなくそれなりの実力が無いと登用・出世できないのが勘定方であり、勘定組頭の関川庄右衛門様は昇進して組頭になっている方であり、こういったお役目をきちんと回してくれるに違いない。
知行は領地ではなく、現米で80石(年収800万円相当)というところに、清六さんは25両(250万円)をお礼として差し出している。
知行からすると、この臨時収入は年収の3割もあり、それだけに寄進の効果は絶大に違いない。
速やかに指示はされるに違いない。
このルートで実物が出回るのは、1ヶ月後の閏7月末頃になるはずで、その時には土の値段が半分以下に下がるはずだ。
工房での土の使用量も節約できる報告を受けており、おそらく今海上にある輸送中の土が全部届けば、8月末まで、つまり売り出しまでの製造に支障はない。
これで『地の粉』に関する課題は概ね決着した、と考えてよさそうだ。
もはや当然の顔をして御屋敷に出入りしている安兵衛さんと他愛もない話をしていると、そこへ紳一郎様が駆け込んできた。
「今しがた萬屋より使いの者が来て、松平越中守(松平定信)様から御殿様とその方に『本日午後に屋敷へ参れ』との伝言を持ってきた。
またどこぞで余計なことをしたのではあるまいな。思い当たる節があるのであれば、ここで申せ」
先月20日の料理比べの席で、田沼意次様と松平定信様を引き合わせた以降は、特に接触もない。
萬屋さんは、律儀にも毎朝の御用聞きを続けてくれているようだが、そこから異常な話は聞いていない。
「いいえ、何の関与もしておりません」
「義兵衛さんの言う通りです。いつも側に居て見聞きしておりますが、最近越中守様の所とは何も接触しておりません」
こういった時に、いつも一緒にいる安兵衛さんの存在が有りがたく思える。
「御殿様のことゆえ、呼び出しを気にせぬ素振りをするであろうが、この呼び出しが難しいことにならなければ良いのじゃがな。
義兵衛、くれぐれも言っておくが、御殿様の本意は目立たぬよう平穏に暮らすことじゃ。余計なことはするではないぞ」
安兵衛さんの居るところで本音を駄々漏らしする紳一郎様もどうかと思うが、そのようなことに構っても居られないのだろう。
そして、御殿様と義兵衛・安兵衛さんはいつかのようにピッタリ正午に越中守様のお屋敷の門を潜り、直様座敷に通されたのであった。
ほとんど待つこともなく、定信様が入室してきた。
「ご苦労であった。
あれから、もっとしばしば訪ねてくれると思うておったが、やはり大名家は煙いかのぉ。ワシとしては折角いろいろと語れる相手が出来たと思っておったゆえ、ちと残念なことじゃ。料亭・百川は贔屓にしておるので、そこを使えば良いとも考えたが、500石の旗本ではあの料亭の敷居は高かったかのぉ。その割には、あの八百膳を使って接待するなど、なにやら奇妙な噂も聞くがなぁ。
さて、今日呼び立てしたのは御老中からの通知を受けてのことじゃ。
そこからの話であれば、ワシは白川藩主でありながら、田安家の当主に戻れることと相成った。いずれ正式な沙汰が下るであろうが、骨を折ってくれた者へ知らせるのが先と思うて呼んだ次第よ。養子として白河・松平家へ出されてもう4年の月日が経っており、もう戻れぬと思っておった局面をひっくり返したのは、お前等椿井家の働きがあってのことであろう。御老中をどのようにして翻意させたのかは、聞いても教えてくれぬであろうが、ワシがもう叶わぬと思った望みが、このように叶ったのは望外の喜びじゃ。
ワシは白河・松平家と田安家の両家当主となるが、それは一時のことじゃ。ワシに2子できれば、一人を田安家を継がせ、もう一人を白川藩を継がせるということになっておる。まだこれからのことではあるが、大人共は気が急くことよ。これではワシはただ子を産ませるためだけの道具ではないか。
おお、話が思わず横道にそれたわ。
それで相談なのだが、近い内にそち・椿井庚太郎を田安家の家臣として召し抱えたいと考えておる。待遇は家老として役料300石を加増することを考えておるが、どうじゃ。
いささか驚かせたかも知れんが、椿井家は旗本であり先が田安家であれば問題はなかろう。
また、なにやら面白いことを知行地で始め、上手く行っている様子ではないか。その知見を田安家でも活かしてもらいたい」
相手は白河藩11万石の御大名家・藩主様であり、また出自を辿れば八代様(将軍吉宗様)の孫である。
更に、今後は松平姓から将軍家に一番近い御三卿、つまり徳川家の内の人となることが内定した方なのだ。
皆は平伏したまま一方的に聞くしかなかったのだが、無役で通してきた御殿様に、突然降って湧いたような話が降りかかってきた。
義兵衛は御殿様の驚いた表情を今まで見たことも無かったが、ここで初めて目にすることとなった。
関係者でありながら、椿井家の盛隆には関係していない安兵衛さんが、真っ先に正気に戻って口を開いた。
「確か田安家には既に家老が2名居りますが、こちらの処遇をどうなさるのかがありましょう。
山本正信様は、随分昔になりますが小普請奉行を経て田安家の御家老となっておりましょう。
もうお一方の石谷清昌様は、4年前から勘定奉行との兼務ではありますが、御家老をなされておりましょう。
どちらも、奉行を経てから田安家の御家老を命じられております」
安兵衛さんの厳しい指摘に、顔色ひとつ変えず涼しい顔をして越中守様は返答してきた。
「おお、正信爺か。田安家(西丸)に居ったときにはよう可愛がってもらった。歳は今はもう80の半ばであろう。兄・治察が亡くなった時は、大変だったのであろうな。もう結構な歳ゆえ、家老の激務はきつかろう。
あと、石谷のことはよう判らん。兄が亡くなった後に入ってきたが、ワシの養子縁組を解消させようとした時の動きは、正直不愉快であった。勘定奉行との兼務であれば、正信爺に負担が偏るであろうに、こういった配慮をして貰えん。それに主が不在の田安家を軽く見ているとしか思えん。田安家の扶持10万石は今のお上では厳しいゆえ、内情を探って貶める狙いを持っていたのであろう。ワシが復帰したら、そうさの、家老を辞めてもらい留守居役にでも退いてもらおうかの。
まあ、こういった訳じゃ。それでこの際思い切って、奉行を経験してはおらぬが話が解る椿井庚太郎を、田安家の家老職に据えるという横車を押してみよう、と考えた次第よ。いきなりでは困ると思い、まずは内輪で話をしようと考えた訳じゃ。
どうかな。まあ、今直ぐの返事は難しかろう。
ただ、ワシはその積もりでこれから動くので、そう心得てもらいたい。
それで、このような機微を要する件は、今までのように萬屋の御用聞きを介して連絡を取ることにしようぞ」
どうやら、越中守様の意志は固いようだ。
しかし、御三卿の家老という役職に就くには、周囲を納得させる妥当な人事でなければ嫉妬ややっかみなどで、おおよそ上手く職責を果たせないのは明らかなのだ。
ともかく、話をほぼ一方的に聞かされた挙句、返事を保留とされたまま会談は終わった。
屋敷へ帰る道すがら、御殿様にしては珍しく、ことの次第を酷くぼやいていたのが印象的だった。




