お婆様の切り札 <C2359>
借財の申し入れをした義兵衛さんとそれに厳しい返答をした千次郎さんを見た安兵衛さんは、小さくため息をついた。
こうなると、義兵衛さんが一番気にしている御殿様へ借財をして頂くことを申し入れるしかないのだ。
ギリギリと奥歯を噛み締めている義兵衛さんの気持ちを思ってか、安兵衛さんも両方の拳を青筋が出るほど強く握りしめていた。
「これ、千次郎。恩義のある義兵衛様にそのようにしか応えられぬと言うのは、辛かろう。じゃが、まだ手はあるぞよ。
ちょっと手を貸せ」
お婆様はこう言うと、中座敷から見える小庭へ降り立った。
「千次郎、そこの水瓶を退けなされ。確か、下に小さな水琴窟が隠れておるはずじゃ。
その水琴窟を掘り起こしてみよ」
千次郎さんが大番頭の忠吉さんを呼ぼうとするのを止めさせ、千次郎に自分の手で掘り起こすように告げた。
そして水琴窟の空洞から、油紙に包まれ蝋で封印された木箱らしいものが現れた。
重い箱についた泥と水気を拭き取り中座敷に持ち込むと、お婆様は蝋の封印を剥がし幾重にも巻かれた油紙を丁寧に剥がした。
中から現れたのは千両箱だった。
「このお宝は、我が父・七蔵が日本橋に店を構えた後からここに埋めたものでな、わたくしにだけ教えてくれていたものなのじゃ。
『ここぞという時の切り札とせよ。いつ、どうやって使うかは円に任せる』と言われておった。今まで、萬屋がゆっくりと傾いていくのを仕方なし、と見ておったが、義兵衛様が気にかけて下さるようになって、見違えたように昔の姿に戻ってきておる。
その義兵衛様が窮地なのじゃ。切り札を使うのは今しかあるまい、とわたくしは思ったのよ。
ただ、この切り札、義兵衛様だけでなく萬屋のためにも使わせてもらいたい。
この千両を丸ごと義兵衛様に差し出しますが、利息や担保は要りませぬ。
差し出すにあたっての条件はただ一つ。我が孫娘の華を嫁に貰ってもらいましょう。それが出来ぬなら、話はここまでじゃ。
ただ、式は今で無くとも良い。この先の都合が良い時期に正妻として迎えるという約束で良い。
いかがかな」
こう言いながらお婆様が千両箱のふたを開けると、そこには今使われている小判(元文小判:3.5匁、品位65.7%)ではなく、それより前の先々代様(8代将軍吉宗様)の時に使われていた小判(享保小判:4.76匁、品位86.8%)が詰っているのを見て、安兵衛さんと千次郎さんは息を飲んだ。
「これはただの1000両ではございませんぞ。このまま両替商に持ち込めば、1600両(1億6000万円)にもなりましょう。正しくお宝です」
同じ小判と言っても、重さや品位は違うので昔の1両は今の1両ではない。
安兵衛さんはこの相場を知っており、その価値を判っているようだ。
千次郎さんは、こういった隠し切り札があることを全く知らなかったようで、大層驚いている。
「このような隠し財産が萬屋にあるということは全く知らなかった。苦しい時にこれだけの金があれば、どれだけ助かっただろうか。母上も人が悪い。なぜ今まで黙っていたのですか。そして、店が順調に回り始めた今、このような物を見せるなんて……」
そして、二人とも絶句してしまった。
そして肝心の義兵衛はお婆様の出した条件に困惑していた。
華さんはまだ10歳で、以前引き合わされた時に、田舎暮らしはできない、と正直に言っていたことを思い出した。
「しかし、お婆様、婚姻については私の一存で決められる訳はございません。まずは養父・紳一郎様と、なにより御殿様がそれをお許しになるかが先決でございましょう。妾ならばいざ知らず、正妻でございます。
いくら私が望んだとしても、許可がなければどうしようもございません。
また、華さんはこういった経緯で婿を決められたことをどう思うでしょうか」
御殿様と養父の了解が先決なのは間違いないが、ことの経緯についての義兵衛の申し立ては少しおかしい。
借金の形に娘がやりとりされてしまう、ということは頻繁に起きえるのだが、この場合はそうなっていない。
持参金を付けるので孫娘を貰ってくれ、という恰好に見えなくもない。
若干ひるんでいる義兵衛に、お婆様はニタァと笑った。
「口約束ではありますが、実は椿井の御殿様にはこの件を言上し了解を貰っておりますよ。
『義兵様は今は飢餓対策事業に金を突っ込んでおりますが、不足する場合は萬屋で嫁を仕立てそれなりの持参金を持たせましょう』と説明したら、あっさりと快諾して頂けました。つい先日の興行のお礼に参った時のことですから、まだはっきり覚えておいでのことでしょう。
それで、持参金としてこの千両の中から一部を使いましょう。それなりの持参金としか言っておりませんので、全部ではございません。そして、その残りを全部差し上げますので、それを義兵衛様の思うように使っていただければよいのです。
それから、商家で嫁取りというのは家の結びつきを強めるためのもので、華がどう思おうとそこは承知しておりますよ。ただ、この話を義兵衛様が受けて頂ければ、華は大層喜ぶことでしょう。
さあ、御受けなされ」
なんと搦め手をすでに攻略済となっている。
この手回しの良さは、どうしたものなのだろうと義兵衛がいぶかる間に、安兵衛さんがお婆様に尋ねた。
「お婆様は、資金が不足するだろうということに、いつ頃から気付いていたのですか」
「そうですね。1ヶ月程前に七輪と焜炉を作っている深川の辰二郎さんの話をして下さいました。この時は寄進料のことを教えて頂きましたが、七輪10万個という説明に資金が足りなくなるのではと危惧したのです。その後、土を椿井家で負担されることになりましたでしょう。その時、資金不足になることにはっきり気付いたのですよ」
そう言えば、その頃からお婆様は静かになっていた。
おそらく、これを見越していろいろと策を練っていたに違いない。
萬屋さんの動向が椿井家の財政に大きく影響することは避けられず、一蓮托生の関係なのだ。
「この件については、まず御殿様と養父に報告せねばなりません。おそらく勝手に借財しようとしたことを叱られると思います」
義兵衛がそう答えると、お婆様はちょっと違うことを説明し始めた。
「いいえ、そのようなことを話す必要はございません。萬屋から、義兵衛様との縁を強くしたく、このほど孫娘の華との縁談を進めたいとの希望を述べるに留めます。ただ、義兵衛様は御殿様に『萬屋の要望に応じたい』という旨と『時期尚早につき今は婚約としたい』旨を述べてください。
後はお婆様にお任せくだされ。婚約の確証が得られ次第、この千両箱ごと義兵衛様へ差し上げます。
一時的に不足する事業資金は、ここから持ち出し、利益が上がれば戻せばよいのです」
千次郎さんと安兵衛さんは目を丸くして千両箱の中を見つめている。
『お婆様は、どうしても縁続きになりたかったに違いない』
そう考えるとお婆様の策にはまってしまったとも言えるのだが、その手腕・執念深さに素直に感心した義兵衛だった。
そして、お婆様の勧めに乗ってしまったのだ。
「わたくしもそうですが、これで華も大喜びでございますよ。ようございました。
御殿様への御挨拶は本日夕刻でもよろしいでしょうか」
どんどん攻め込んで来るお婆様の迫力に気圧されてしまっていた。
そのまま義兵衛はお婆様と一緒に、椿井家の屋敷まで戻った。
義兵衛がことの次第を消化する間もないままお婆様が御殿様に挨拶を済ませ、千次郎さん達が運んできた酒・肴で、内輪の小宴会が開かれるに至っては、もはや既定路線とばかりに、婚約を約束したということが覆すこともできない恰好になってしまった。
そして、この小宴会の中でお婆様の入れ知恵か、御殿様の声掛かりがあり、10日後に正式な婚約を交わす式を行うことになってしまったのだ。




