繭寧酢を披露 <C2345>
武蔵屋の女将が『お土産』という言葉で何か新しい料理のアイデアを出せと義兵衛に迫ってきた。
「むむっ、義兵衛さんは手元不如意とかではないですか。もしそうなら、武蔵屋に買ってもらうという手はありますよ。辣油については、坂本が20両(200万円)を座に納めて終わりましたが、本当は義兵衛さんの貴重な収入だったのでしょう」
千次郎さんは、萬屋2階の金庫の中身を御存じのようだ。
おそらく辰二郎さんが立て替えた25両をどうするのか先回りして考えたに違いない。
そして、京橋・坂本さんに辣油を教えたときの様子を千次郎さんは思い出したようだ。
善四郎さんが義兵衛の表情を覗き込んでいる。
「もし、何か思いついているのであれば、武蔵屋さんに教えてはどうだろう。ワシも新しいものを知りたい」
あれっ、善四郎さんも『お土産』という言葉に反応して武蔵屋の女将側にすっかり寝返っている。
しかも、義兵衛の表情から、何かこの江戸時代にはない食材を思いついたことを感づいたようだ。
「京橋・坂本さんに辣油を教えたとき、私はその場に丁度居なかったので、とても残念な思いをしました。
料理のことであれば、ここで話しても御殿様に叱られることはないと思いますよ。
それで、武蔵屋の女将、新しいものにもよるのだろうけど、義兵衛さんが新しい料理につながる何かを教えてくれたら、その対価としていかほどまでなら出せるのでしょうかね。
ともかくこれは見ものですよ」
安兵衛さんまで女将側の人になってしまっている。
そして、皆ワクワクするような顔でこちらを見つめている。
「坂本が出した赤い調味料は『辣油』と仰られるのですね。それは何かの植物の油ですか。
いえ、おそらくそれは武蔵屋の割下と同様に内緒なのでしょう。そのために20両も出したのですからね。
それで、これから教えて頂く新しい食材の対価ですか。そうですね、今お教え頂けるのであれば、30両は出しましょう。物にもよりますが、最低でも30両を直ぐ小判でお渡ししますよ。
さあ、教えてください」
いつの間にか教えることになっているし、ここまで迫られたら仕方ない。
しかも実際に思いついてしまったのだから、どうしょうもない。
「判りました。実際に造ってみます。
板前さん。食用の菜種油と米酢、塩、それに玉子を用意してください。あと、すり鉢と茶筅も準備してください」
この声を聞いて7人は奥座敷から台所横の配膳室に移った。
「これから作ってみるのは、調味料の一種です。油と酢を混ぜるのでそれぞれの量が重要になります。なので、勺猪口を使って量を測っていきます」
まず、卵黄を2個(概ね34g)、米酢を勺(1合の1/10:擦り切りで18ml、通常15ml)猪口で2杯、塩を軽く4つまみ(6g)をすり鉢に入れ、茶筅でよくかき混ぜた。
「この混合液に菜種油を少しずつ足しながら、細かくかき混ぜていきます。加える油は、全部で勺猪口13杯位(おおよそ200ml)を目安にします。油はすぐに浮いて油のままでいようとしますので、できるだけ細かく小さな粒になるように茶筅を鉢全体に、そして先を細かく震わせるようにして、卵黄と酢の混合液に混ぜ込んでいきます。
ちょっと力仕事なので、安兵衛さん、代わって茶筅を回してもらえますか」
油を2杯入れて混ぜたところで安兵衛さんに交代した。
鉢の前に安兵衛さんが座り、シャカシャカと茶筅を器用に扱って動かしている。
頃合を見ては、横から油をお猪口で継ぎ足していく。
鉢の反対側、安兵衛さんに向き合う所に善四郎さんがドンと座り、その横から武蔵屋さんの板前さん、主人、女将が覗きこんでいる。
鉢の中では、だんだん見覚えのある黄白色のトロ味のある半固体状ドレッシングが出来上がってくる。
空気に触れると劣化するので、茶の湯のように空気を含ませるように混ぜるのは頂けないが、満足できる器具もないので仕方がない。
「混ぜていて、油分が分離してきそうな感じになったら少し酢を足して混ぜる作業を続けます。
13杯目の油を入れて、結構混ぜましたし、もう液体の所がないようなので、これで完成でしょう。
これは、南蛮ではおそらくマヨネーズと呼ばれているであろう調味料で、おそらく本邦初のものです。
そうですね、唐風に言うと卵黄醤という呼び方になるのでしょうが、できれば和名で繭寧酢と名付けてしまいましょう。その方が原料を詮索されないでしょうから。
これ単独で食べるものではなく、何かに付けて食べるものです。たとえば、胡瓜、ありますか」
板前さんが水につけておいた胡瓜を持ってきた。
この胡瓜を義兵衛が縦に4つに切って更に半分の大きさに切る。
そして、その1片を手で持ち、匙で繭寧酢をすくい先端に乗せ、そのまま口へ運ぶ。
特段の味はしないが、違和感はない。
「このようにして使います。
今回作ったものは、何も入れない形なので、例えばこれに野菜の漬物のみじん切りを加えて混ぜるとか、ゆで卵をつぶしたものに和えるとかすると面白い味になります。
油は力を出すのに有効な食品ですが、そのまま口にするとベチャベチャしてしまいますが、このような調味料にすると簡単に口にすることができます。
この場で思いついただけなので、単純な基本の形のものしか作れませんでしたが、食べ物への影響は大きいと考えます」
こうやって繭寧酢を作って見せたものの、少し酸いだけで淡泊な味のものだけに反応が薄い。
武蔵屋の女将は、なにか残念な表情をしている。
この繭寧酢、実際には大正末期に販売されたものだが、洋食とともに広がったのは昭和時代になってからなのだ。生野菜をそのまま食べるという習慣自体がないこの時代では、よほど工夫しない限り持て余してしまうに違いない。
「折角新しいものを教えて頂いたのですが、これでは、ちょっと頂けない……」
武蔵屋の主人がそう言いかかったのに被せて善四郎さんが口を挟んだ。
「義兵衛さん、武蔵屋が要らぬようであれば、八百膳が40両で買いましょう。この作りかたは実に面白い。
まあ、この繭寧酢が流行るようであれば、作り方を見た武蔵屋さんが真似するのは容易いでしょう。
それで、武蔵屋さん。そういったことで、お土産はなし、ということで御了解ください。
義兵衛さん、教えてくだされ。酢と油、まあ水と油ですが、お互いに混じることはないと思っていたのですが、どういった具合なのですかね。それが、代金分ですよ」
追い込まれてしまった。
「卵の黄身ですが、これが水にも油にも溶けるのですよ。それで、油がとても小さな玉になって、その周囲を黄身の成分が包んで水に溶けるようになるのです。油を小さな玉にするところが大事で、茶筅で一生懸命混ぜてくれた安兵衛さんの力によるところが大きいです。この小さな油の玉を、卵黄が繭のように丁寧に包んで酢と混ざっていることから、繭寧酢という名前で良いと思ったのです。
実は、豆腐の原料も同じようなもので、大豆油の旨味を持った小さな粒を、大豆の蛋白質、ええと白い色のもので卵の白身のようなものなのですが、それが粒をくるんで水に溶けるようになっているのです。
この繭寧酢は、酢や油の種類、加える塩の量を加減したり、柑橘類の汁を加えても良いのです。今回は俄かだったので、きちんとしたものが作れず、申し訳ないです」
義兵衛の簡単な説明で、善四郎さんは納得した。
「おお、これは面白い理屈を聞けた。その話だけで充分に価値はある。小判で40両は萬屋さんの所に預けておけば良いな」
武蔵屋での話はこれで終わったが、義兵衛は明日の出立のことがあるので屋敷に戻ったのだった。




