江戸・小石川薬園にて <C234>
江戸です。花のお江戸ですが、2月はまだ寒い。
■安永7年(1778年)2月下旬 江戸・小石川薬園
翌日の早朝、父・百太郎と義兵衛は金程村を出立した。
目的地は、江戸城の北側、白山御殿の一角に作られた小石川薬園である。
村から小石川薬園までは、おおよそ9里=36Kmの距離であり、健脚の二人であれば夕方前に着くと踏んだ。
まだ日も出ぬ暗い内から村を出、多摩川を渡る登戸村を目指す。
登戸村まで3里=12Kmあり、進む道の先に昇る朝日を拝むころ到着した。
前回、ここに来た時は背負い籠に火鉢と練炭を入れ、大荷物を持っての移動だったが、今回は風呂敷にお土産を入れての軽装であるだけに脚が軽い。
登戸村の渡しで船に乗り、多摩川を横切り向かいの猪方村へ渡る。
そこから津久井往還道を歩み、2里半=10Kmのところで矢倉沢往還道に合流する。
この矢倉沢往還道は、江戸から丹沢の大山阿夫利神社詣でが流行って賑わいのある街道だ。
合流地点は、三軒茶屋という地名で、八幡神社や何軒かの料理屋が街道沿いに並んでいる。
ここで約半分の道のりであり、小休止する。
三軒茶屋から赤坂御門までは2里=8Kmだが、平坦ではなく結構細かく坂がある。
しかし山道で鍛えた健脚にはどうということもなく、昼前には、矢倉沢往還道の始まりの場所の赤坂御門に着いた。
ここから、外堀に沿って飯田橋まで1里=4Km行き、そこから小石川薬園まで半里=2Kmを歩く。
道の両側に田や畑はなく、武家屋敷や商店、長屋といった家がぎっしりと並んでいる。
飯田橋から小石川薬園は直通する道はないので、迷いながら尋ねながら行くしかない。
家が沢山並んでいて見通しが確保できず、山村しか知らない義兵衛は混乱している。
若干遠回りしたかもしれなかったが、それでも小石川薬園には、七つ時=午後2時頃には到着することができた。
薬園の門番へ添え状と嘆願書を渡し、取次ぎを依頼する。
暫くすると、門の横にある木戸から中へ案内された。
ここでは庭に回るということはなく、案内先は建物の中の土間であった。
「ここの上框に腰掛けて待っておれ」
そう指示されると、門番は奥へ消え、入れ替わりに壮年のお武家様が現れた。
百太郎と義兵衛は、上框に腰を下ろす間もなく、土間で立ったままお武家様と向き合った。
百太郎は、お土産を捧げ上框に置いた。
「里で取れる干し柿でございます。
近くの里で取れる禅寺丸ではございませんが、それにも劣らぬ甘さでございます。
皆様でお召し上がりください」
そして、土間に跪いた。
「元々は小石川薬園だけであったが、現在は療養所が併設されておる。
ワシは療養所の同心・戸塚順二と申す。
今朝ほど、お奉行様より、嘆願の件の通知があった。
椿井殿の案内にあった金程村の伊藤百太郎とは、そちのことで間違いないか」
同心と名乗った戸塚様は、先ほど門番に渡した添え状と嘆願書、それにもう一通の書状を広げ内容を見比べている。
「ははぁ。その通りでございます」
土間で平伏する。
「よいよい、楽にいたせ。ここは、平民を対象にした療養所じゃ。
顔が見えんでは、話が伝わったかが見えん。
さて、ここに書かれておる薩摩芋だが、中間が蔵に取りにいっておるので、しばし待たれよ。
今は亡き青木昆陽先生が救荒作物として栽培を奨励しておった。
『甘藷之記』という、栽培法など書いた書物も残されておる。
差し上げる訳にはいかぬが、ここで読む分については一向に構わん。
さあ、上がってこの書を読むが良い」
「有難き幸せにございます」
百太郎は深くお辞儀をした。
「戸塚様、ご無礼を承知でお尋ねいたします。
馬鈴薯もしくはジャガタライモ・ジャガイモというイモのことはご存知ありませんでしょうか。
薩摩芋と同様に救荒作物として栽培できると聞いております。
小石川薬園にて、その種芋を採取・保管されておられるようなことはございませんでしょうか」
義兵衛のお尋ねに、戸塚様は驚いたような表情をした。
「ジャガタライモという名前は聞いた覚えはある。
椿井殿の文には薩摩芋の名前しかなかったので、準備ができておらん。
確かめてくるので、暫しこの座敷で待たれよ。
『甘藷之記』は置いておくので、読んで待っておれ」
土間横の座敷で百太郎が必死で速読する。
義兵衛は俺がチラ見できるように、百太郎の手元の本を覗き込んでおいてくれる。
しかし、正直なところ『甘藷之記』が草書体で書かれており、全く読めないのだ。
義兵衛がぱっと見で読み取った思考の中身で、何が書いてあるのかを理解する。
『種芋をそのまま植える』と見えたが、多分葉が出たツルを切って植えるのが正解だと思う。
この本に書かれたことが、必ずしも正解とは限らないので、俺の知っている方法でも試してみよう。
本を読むのに夢中だったため時間が経つのを忘れていたが、かなりの時間が経過した後、先ほどの戸塚様が現れた。
あわててその前に平伏する。
「薩摩芋は、この通り2本用意できた。
これを植えるが良い。
さて、ジャガタライモは、オランダ船がジャガタラより持ち込んだイモであるが、こちらにはそのものがない。
由来からすると、佐賀鍋島藩にて栽培している可能性はある。
とある書物にこの名前があることから、小石川薬園にでも所蔵しておきたいと考えておる。
鍋島藩へ手持ち有無の問合せと、無い場合は取り寄せをこちらで行う。
2~3カ月後には実物を渡せることもあろう。
そうさな、夏前にもう一度ワシを尋ねてまいれ」
百太郎は平伏したまま、薩摩芋を2本受け取ると、これを義兵衛に渡した。
そして、懐から懐紙に包んだ10匁の刻印がある銀塊を取り出し、恭しく捧げ出した。
「こちらは、薩摩芋をお探し頂き、また村のためにご用意頂いたことへのお礼で御座います。
お受け取りください」
銀10匁と言えば1000文だ。
先日、登戸村で練炭を競り売りしたとき、お武家様から受け取った代金をそのまま差し出している。
「これは薩摩芋のお礼としては破格じゃ。
それゆえ、小石川療養所への喜捨として寄せられたものとして扱ってよいかな」
戸塚様は潔癖な方なのか、私淑することなく療養所の運営資金に織り込むことでこの銀への対応をした。
「そうじゃ、ジャガタライモはこちらに届いたら、こちらから里に連絡をいれようぞ」
「ご親切な対応、いたみいります。
誠にありがとうございます」
百太郎は平伏した。
入手した2本の種芋は、それぞれ1本ずつ分けて持ち、万が一に備えて持ち帰ることにした。
もう夕刻であり、夜通しで帰る訳にもいかず、少し戻り甲州街道沿いにある旅籠で一泊する。
「父上、最後にお礼として銀10匁を献上しましたが、ちょっと多すぎではなかったですか」
「まあ、そうかも知れないが、博打の掛金は高いほど効果があるという験担だ。
入手に全く時間がかからなかったし、幸先が良かったと思うことにしよう」
「しかし、ジャガタライモを貰いに来るときは、同じ以上の銀を要求されたも同じです。
銀10匁、準備できるのか心配です」
「義兵衛、お前はいつのまにそんな世知辛い計算ができるようになったのかな。
成長したと見るべきなのだが、できれば孝太郎にも分けてやりたいものだ。
銀については、加登屋さんにお願いするのがよかろう」
お殿様といい、薬園といい、お武家様を相手にするとロスばかりが出てしまうのは困ったものだ。
俺がそう話しかけると、義兵衛は同意し深く頷いてため息をついたのだった。
どう扱うべきか悩んだ「馬鈴薯:じゃがいも」ですが、お話として上記のようなことにさせてもらいました。出島の商館の厨房に、袋詰めされてころがっている、というのがありそうな姿ではあります。
後「甘藷之記」の栽培方法は生産性が低いので、別な方法があることをここで示唆しています。ただ、このお話は随分後ろになってしまう見込みです。
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