工房にて(春さんの評判) <C2315>
さて、米さんに工房の並びと工程を丁寧に説明して回る役目を任せると、義兵衛は26基も据えられた釣瓶分銅(薄厚練炭を固める型を重しで押す器具)を点検して回わった。
早朝で寺子屋組が3分の1位の人数しかいないため、薄厚練炭を作る組は4列しか動かしておらず、ラインの要でもある釣瓶分銅は8基しか稼働していない。
生産ライン13組の各組に2基が基本だが、配置を見ると背中合わせの組の作業を手伝える形に組んであり、何かあった時には片側の作業を止めずに1組で4基の釣瓶分銅が操作できるよう工夫されている。
13列目は背中合わせに小炭団の生産列が並んでおり、おそらく助太郎の試作確認用のものと考えられる。
というのも、釣瓶の所に他にはない滑車を組み合わせた二重梃のような仕組みが組み込まれており、操作が軽いのだ。
力の弱い子供でも生産に従事できるような工夫が進んでおり、上手くいくようであれば入れ替えていくのだろう。
忙しそうな生産現場の中で、ちょろちょろと走り回りながら数量を帳面に書き留めているのは春さんだ。
「義兵衛様、ちょっと今、ここの数字を書き留めねばならないので、失礼します」
朝一番、稼働開始直後に定期的な情報の仕切りをしているのだ。
こういった一見地味だが正確な情報を積み上げていくことが近代工業の基礎でもあり、誰がいるから、と言って止める訳にはいかない。
まだあどけない幼さを表情に残す春さんだが、要諦はしっかり身についている。
こうやって様子を見る内に、梅さんが皆を呼びにきた。
「それでは、私と梅・春は奥の部屋に行きます。後は弥生さんが全体を見ておいてください。寺子屋組は少し早めに切り上げて、継続作業に支障が出ないように留意してください」
米さんは慣れた様子で現場の総指揮を万福寺村の弥生さんに引き継ぐと、安兵衛さんにも工房奥の部屋へ移るよう勧めた。
奥の部屋に入ると、助太郎が満面の笑みを浮かべて義兵衛を迎えてくれた。
義兵衛は、まずは安兵衛さんを紹介し、今回の帰郷の趣旨を説明していく。
「御殿様から練炭の生産委託先について指示があった。場所は江戸を挟んで丁度反対側の下総国・印旛郡の名内村となる。
まずは、領主・旗本の杉原様へご挨拶し、その後名内村の名主・秋谷修吾様へ挨拶することになる。そして、その地における木炭の流通や工房設置環境、輸送環境を見極めてから、基本となる建屋を借りるか作るかして、それから人集めになる。
その段階を経てこちらの工房から指導する者を出してもらう恰好になるため、思ったより時間がかかることになるだろう。
ある程度話が煮詰まる前に、助太郎にも現地を見てもらいたい。
先方に作る工房に責任者を決めてもらい、こちらの工房へ来て見てもらうことも必要になるかも知れない」
そう説明を切り出すと、梅さんが反応した。
「先方の責任者がこの工房へ来るかも、ってどういうことですか。委託生産するのは普通練炭だからここの工房での生産は大丈夫、と以前説明されましたよね。製造方法も一番最初のやり方のものを教えるから、と言っていたじゃないですか。ここを見せたら、元の木阿弥ですよ。絶対真似をするし、こちらの優位性が無くなります。いくら義兵衛様のお考えだとは言え、そこは不味いですよ。それとも前の話は方便と言われるのですか」
相変わらず厳しいが、その通りなのだからしょうがない。
前回の見落としを取り返すかのように、幼い春さんも声を上げた。
「今の生産量は薄厚練炭日産で1万個を達成しています。普通練炭に換算すると2500個ですが、8月末まで104日で、そこまでの総生産量は124万個、普通練炭に換算して31万個にもありましょう。登戸へ既に出荷した分も含みますが、義兵衛様が前におっしゃられた24万個を7万個も上回ることが出来ております。
そして、9月から年末までは119日御座いますので、少なくとも普通練炭換算で30万個を積み上げることができます。全部で61万個の練炭になりますが、これでも足りませんか」
8歳にしては結構しっかり考えているのが良く判る。
これは本当に逸材かもしれない、という思いはあるが、今はだからと言って何かできる訳でもない。
「春さん、随分しっかり考えていますね。でも、江戸の町というのは100万人もの人が暮らしているのですよ。掛け算や割り算はまだ教わっていないかも知れませんが、9月から年末までの4カ月の内に一人が1個の普通練炭を使おうとするだけで100万個の練炭が要るのですよ。七輪は10万個売るつもりなので、今度来る冬の間に七輪1個あたり10個、薄厚練炭だと40個では足らないと考えているのです。節約して5日毎に1個使うとしても24個、10万個の七輪だと240万個要るのですよ」
数の暴力の前にはどうにもならない、ということを伝えたいのだが、たかだか50人で暮らす村のことをぼんやりと意識している春さんに江戸の街並みの雑踏を意識しろ、というのは所詮無理な話なのだろう。
しかし、これだけ数字についての素養を示す人材がこの村に居る、というのは実は凄いことなのだ。
こんなまだ小さい子供が義兵衛に意見するのを聞いて、安兵衛さんがあきれている。
「この工房では、皆この春ちゃんのようにしっかりしているのですか」
思わず安兵衛さんが口走る。
「安兵衛様、春さんは数字について抜きん出た素養を持っているのを梅さんが見出して、記録を付けたり不足しそうな材料を手配したりする業務をさせたのです。今では、この工房の陰から支えている実力者なのですよ。
最初は普通の作業をさせていたのですが、不器用で困ったと思っていましたが、そうではない方に才能があるなんて思いもしなかったのです。おそらく、こういった才能が発揮できずに、才能が生かされないまま生きている人は大勢いるのではないかな、なんて今思ったりしています。この工房で春さんのこの能力が見出せたのは、僥倖でした。
私はそういった目で人を見たいと思っています」
米さんはシラッと恐ろしいことを口にする。
言っていることはまともなのかも知れないが、この時代の感覚からすると非常識この上ない内容なのだ。
しかし、安兵衛さんはなぜか米さんが言った内容を肯定しているように見えた。
「それで、春ちゃんはお姉さんだからしっかりしているのだけど、その妹はまだ見習いなのよ。真似事はできるのだけど、もうひとつ意味が汲み取れていないの。1年半程の歳の差があるのだから、当然なのだけれど、その分これからに期待よね」
人の能力を見抜くことに長けた梅さんの一言は重い。
春さん姉妹はこういった能力に秀でているようで、工房にとって将来はとても楽しみである。
それにしても、9月までに普通練炭150万個の準備が31万個では2割しかできないということで、当初の1~2ヶ月は大丈夫としても、12月の本格的な冬場には燃料が枯渇し、練炭が高騰するのが目に見えている。
ここに向けて生産の委託を本格的に進めるしかないと思うのだ。
「みんな、ちょっとは落ち着こう。折角義兵衛さんが来てくれているのだから、ちゃんと提案を聞いて、それをどうしていくのかを話しあおうじゃないか。
委託先に指導として弥生さんと近蔵を送り込む件は本人と親に了解を取れている。
技術的には、一番最初のやり方と道具を持たせることで準備している。
しかし、委託先の責任者がこの工房を見たら、違うやり方ということに気づくのではないか、ということが問題なのだろう」
助太郎はこういって意見をまとめ始めた。
流石に困ったときに頼りになる助太郎だ。
安兵衛さんは、工房の首脳陣が集まったこの打ち合わせのありように強く興味を引かれたのだった。




