里帰り・実家にて <C2313>
夕方前のまだ充分明るい内に細山村のお館に到着し、お館の爺・細江泰兵衛さんらの出迎えを受け、門を潜る。
連れていた5疋の馬は、用意されていた厩舎に収まった。
「皆、苦労であった。隊はここで解散するので、各自家族の元で英気を養っておけ。17日には江戸屋敷へ戻る準備をし、18日早朝にはここを出立するので留意せよ」
御殿様の宣言に皆歓声を上げてチリジリになっていく。
単身赴任していた家臣の面々は帰郷が1日延伸され、その分、待たされていたのだ。
その原因が新参者の義兵衛が引き起こした騒動だけに、御殿様の指図とは言え、実の所風当たりは強かったのだ。
「義兵衛、お前はこの馬をどう使うのか、というつもりを爺にちゃんと説明し、それから実家に戻れ。ワシはその後に、爺と話がある。
甲三郎が不在となって、まだ20日ほどではないのだが結構日も経った。爺の手に余る判断もあろう。新田の開墾も思ったように進んではおらぬであろう。どこまで爺の判断で進めてよいかをきちんと決めておかねばならぬ所をワシは抜かった。
まあ、そういったこともあり、今夜・明日とお前の相手はできそうにない」
帰郷が1日延伸したことの埋め合わせを今夜してしまおう、という御殿様の考えに違いない。
義兵衛の知らないところで結構暗躍している気もするが、そういったことも爺に相談するのだろう。
義兵衛は厩舎の前で養祖父・泰兵衛さんを相手に考えていることを説明した。
当然のように御殿様も安兵衛さんも聞いている。
「金程村の工房で生産された練炭を登戸の炭屋さんまで運搬するのに難儀しておると聞いております。
馬であれば、1日3往復できましょうから3疋をこれにあて、登戸へは練炭を、登戸からは木炭を運んで来て頂ければと考えております。
あとは、御殿様の騎乗用の馬ですが、江戸に常時1疋居るように2日留め置き、ここと江戸屋敷の間で1疋を行き来させます。こちらは江戸へは飼葉を、江戸からは七輪を登戸まで運び、登戸からは木炭を仕入れて運んで頂ければと考えております。
木炭は、炭屋さんで青梅など多摩川上流の地域から仕入れたものを持っておりますので、手当てはできておると考えます。木炭の費用は、練炭の掛売り金を使えば問題ありません」
要は、馬3疋をここと登戸の定期輸送に使うことで、毎日5000個の薄厚練炭を輸送する目処を付けたいのだ。
ちなみに、重量では約440貫(1650kg)で、金額では金56両相当の薄厚練炭である。
お館の爺は義兵衛の説明を聞いて頷いた。
「馬子・人足の手配も必要じゃな。今は白井家・伊藤家の大人が運んでおるが、これに馬が加わる格好か。馬とて、全てが順調という訳にも行かぬゆえ、どう回すのかは考えてみよう。道も少しは整備して広げ、木の根など随分処置して通りやすくしておる。これだけ頻繁に通えばもっと整備も必要じゃ。
あとは、江戸へ送る飼葉の手配か。これまでのように、細山村と金程村だけで手配するのは難しかろうな。下菅村にも手伝ってもらう段取りが要ろうが、御公儀の代官様へ事前の届け出が要ると思う。これはちとややこしいのぉ。昔であれば、同じ旗本の木作七左衛門様の御領地であったので、話が早かったのだが、七左衛門様の御領地は御公儀預かりとなってしまったからのう」
石高350石の下菅村は、旗本の木村家が150石・椿井家が200石の相給となっていた村なのだが、木村家は先代の頃に何らかの事情で領地を召し上げられ、幕府直轄地となって代官・松村忠四郎様の配下にある。
ちなみに、武蔵国で幕府直轄領の代官は、代々松村忠四郎という名前を名乗ることになっていて、いわば役職名である。
それで、事前に話を通しておく先が御公儀の役所筋となるため、ともかく時間がかかるので爺は困っているのだ。
ただ、そこは爺に任せることになり、義兵衛は金程村の実家へ戻ったのだった。
そう、安兵衛さんをお供に連れたままで。
「おお、よう戻ったのぉ。前は確か5月末であったから、さして日が開いた訳でもないな」
家に入り挨拶するなり父・百太郎がこう話かけてきた。
確かに5月29日に富美を護送してから半月しか経っていないが、その間に起きたことを考えると、とても普通ではなかった。
町奉行・曲淵景漸様の邸宅で老中・田沼意次様にお目通りし、白河藩主・松平定信様の御屋敷へ出入りして話を交わし、加賀藩江戸留守居役家老・横山三左衛門様とその家臣の方々とのも面識ができた。
それ以外にも、瀬戸物屋の山口屋清六さんや薪炭問屋の奈良屋重太郎さんという商家の主人と出会ったり、秋葉神社別当満願寺・原井喜六郎さんに焜炉供養の提案をしたりと、幕府上層だけでなく市中に影響のある商家主人・寺社のお坊様など、思いもかけずかなり手広くなってしまったのだ。
「はい、ただこの半月はあまりにもいろいろあり過ぎました。しかし、まだまだでございましょう。
それで、こちらに居るのは浜野安兵衛様です。町奉行・曲淵甲斐守様の御家来で、私と行動を共にするよう言い付かっております。この里でも同じようにするよう言われております。
それはそうと、練炭を登戸まで運ぶ件について、手配をして頂きありがとうございます。大人に手伝って頂けるので、大層助かっています」
玄関に続く土間での立ち話から、奥の客間へ場所を移し、兄・孝太郎も呼ばれて話は続く。
義兵衛は、この半月あまりの間に我が身に起きたことを説明すると、百太郎は大きく目を剥いた。
「これは凄いことになっておるではないか。一介の百姓の息子が御老中様やお大名の御殿様のお目にかかるということは、まずもっておき得ることではない。
ワシもお前と同じような歳にこの村を出ていろいろと巡り歩いたが、その時に得た経験や知遇はその後に大きな財産となった。お前も同じようにしておると思っていたが、その中身や具合はワシの比ではないのぉ。やはり、ただ追い出されたワシと、大きな目的を持って外の世界に飛び出したお前との差か。
いや、お前の中に......、おっと、これはいかん。まあ、ともかく大きな目で世の中の動きを捉えて、着実に手を打つなどという真似は、普通ではなかなか難しかろう」
今まで必死で足掻いていたことが、このような評価に繋がっているのだろう。
ただ、村に建てつつある米蔵はまだ土台だけで、飢饉対策はその緒についたばかりでしかない。
そして、村や椿井家御領地だけが備蓄米を沢山持っているという状況では『襲ってください』という様なものなのだ。
せめて、周囲の村や、地域の大きな拠点となる登戸・府中といった場所に飢餓民の流入を防ぐための仕組み、お救い小屋などが併設され、暴徒が徒党を組んで荒らしまわることがないように自衛を強化しておく必要があるのだ。
そのためには、御公儀側で寛政の改革の施策を先取りし、天明になる前の安永年間で方向を打ち出してもらわねば困ったことになる。
それを知ってか、御殿様は越中守様(松平定信様)への接近を意図しているのだと思いたい。
父の話を聞きながらも、思いが江戸の政治舞台へとどうしても飛んでしまう。
「あと、練炭運搬のことですが、登戸への搬送にお館の馬3疋を使わせてもらうように細江泰兵衛様へ頼んでおります。細山村からも人を出してもらっていますが、これで運搬の目算が立ちます。
ああ、馬のことですが、陸奥国白河藩で飼っていた馬を新たに4疋入手しており、登戸と江戸との往復に使う段取りとなっています。ただ、お館の中だけでは飼葉などの準備が不十分なので、それぞれの村でお世話して頂くよう依頼があるはずです。おそらく、明日・明後日にでも各村の名主を集めて寄り合いが開かれるでしょう。御殿様からもお声掛かりがあるはずです」
父・百太郎と兄・孝太郎、そして同席している安兵衛さんを相手に、こういった話をして6月13日は終わったのだった。
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