御殿様、登戸村へ到着 <C2312>
■安永7年(1778年)6月13日(太陽暦7月7日) 憑依125日目
早朝というより、まだ日が昇る前に安兵衛さんが屋敷にやってきた。
夏至のこの時期、元の時代では4時半にはもう空が明るくなり始めるので、安兵衛さんは暗いうちに奉行所を出ているに違いない。
昨日のことを思い起こすと、加賀金沢藩の御家老様一行を接待して満足して貰えたようだ。
後で聞いたことだが、江戸藩邸留守居役というのは普段は接待する側であり、接待されるような立場にはない。
それだけに接待する側の幹事の苦労は当然知っているのだろう。
前日の申し入れ、開始直前で突然の人数変更、主客の格変更という接待する側として一番困る仕打ちを敢えてすることで、試したのだと思いたい。
まあ、ドタキャンされなかっただけマシなのかも知れない。
そして、その接待に満足したからこそ、必要な情報を教えてくれたのだと考えてよさそうだ。
ちなみに、江戸藩邸の留守居役が接待するのは公儀の高官・役人であり、その趣旨は藩主の猟官活動と御公儀指定の大規模修理などの普請のお手伝いの御免を願ってのことなのだ。
特に、河川改修や道補修、城郭改修などの多数の人足がかかるお役の下命は、指名された藩がほぼ全額負担でありその結果多額の費用負担が発生するので、こういった事業の発生を事前に予知し指名を回避する、というのは藩の経理の正常化・強いては藩の存続にとって非常に重要なことになる。
ちなみにこういった公共事業を政府の費用負担とするのは明治以降の話であって、この江戸時代はお手伝いと称して江戸の町と城をそれぞれの大名家が競って整備したことを端に発しており、財政が豊かな藩の懐を痛めつけて弱体化させるという目的で多用したのも事実なのだ。
こういった実情を踏まえ、例えば総額50万両にも及ぶ河川改修の工事任命・負担を避けるために50両の接待をケチってはならないのだ。
もっとも、昨夜の接待は料亭への支払いがたった2分というとてつもなく安く上がったのは、椿井家外へは内緒である。
「おはようございます、義兵衛さん。昨日はご苦労様でした。我が殿も大層感心されておりました。
今日からは帰郷に付き合わさせて頂きますよ。もちろん、両御殿様の了解は頂いております。
今回、義兵衛さん帰郷の大きな目的の一つは、昨夕に萬屋で話されていた練炭の委託生産のことで御座いましょう。場所選びにあたっては御殿様の慧眼などと萬屋さんの所では言っておられましたが、実のところどうなんでしょうかね。お婆様は疑問に思われなかったのかも知れませんが、私はそうなるように誘導したとしか思えませんよ。
それから、今回、練炭を作っている工房を是非見学させてください。『幾つも作業の列があって、人ではなく物が流れるように作られている』など報告に同席している同心・戸塚様が話すのですが、実際にどうなっているのかはこの目で見ないと判らないのですよ」
本当はベルトコンベア作業にしたい、とすら思っているが、そういった作りにも出来ないため、現状はお盆に載せた製品を手で次の工程に回すやり方になっているのだが、そういった大量生産方式自体この時代では一般的にその発想が無いのだろう。
「まあそこは楽しみにしておいてください」
陽が昇る頃、門内にお供の面々が集まり、御殿様騎乗の馬1疋と荷駄用の馬4疋が引き出されてきた。
当初1疋は江戸屋敷に残す予定であったが、御殿様が江戸に戻るまで遊ばせる位なら荷役に使うべきと判断されたのだ。
この御殿様の指示により運び出せる七輪を24個増やし、人が担ぐものを含め計120個を持ち帰ることができるようになった。
ただ、これを運び出したところで、屋敷内にある七輪は1800個で、19日にはまた1000個が深川から持ち込まれてくる。
ちなみに、15日には江戸っ子が楽しみにしている山王権現御礼祭があり、その前後で工房の生産作業は止めるため16日の搬入予定は22日にする、と事前に延伸の連絡が入っている。
実際には15日前後にかかる作業を止めるため、ここにかかる工程・影響の出る作業は完全に後ろにずらす。
そうしないと品質が保てないという理屈は納得するところだ。
そして、結局実質16日から手掛けると頭の工程から始めるので7日はかかる、ということなのだ。
それほど山王権現御礼祭は影響が大きいお祭りということのようだ。
さて、一同が揃い御殿様が支度を終えてお出ましになると、出立である。
お忍びとは異なり、間際で日程を変更したとは言え、届け出を出した正式な帰郷である。
500石の旗本に相応しい隊列を組んで門を出ていく。
もっとも、七輪の入った四角い枠を載せた荷駄や背負った人足が続いている点で噴出す感じになってはいるが、それでも旗指物を掲げ、騎乗した御殿様とその周囲に両刀を帯びた家臣が集団行進しており、汗だくになりながらも規律正しく道中を進んでいく。
大山街道を辿り、目黒川にかかる大橋(元いた時代では池尻大橋の場所)を渡る手前に高札場があり、江戸の外に出たことが判る。
その横にある氷川神社・稲荷神社(大橋二丁目の氷川神社)で、小休止を取り、旗指物を下げ家臣は旅装に切り替えた。
そして、そこからはおおよそ一刻毎に小休止を取りながら道を進み、昼過ぎには多摩川を渡り登戸村に到着した。
船着場には炭屋番頭の中田さんが手代・丁稚を連れて待ち構えており、そのまま一行を店へ案内した。
そこで一行は炭屋の奥の敷地に建つ借りていた蔵へ七輪を納めた。
蔵の中を見ると、片方の壁沿いに薄厚練炭がぎっしりと積み上げられていた。
「中田さん、この練炭はどれくらいありますか」
「ああ、全部薄厚練炭でおおよそ5万個ほどです。これでも半分は江戸へ送り出した後です。最近は工房の子供達ではなく、大人が毎日、入れ替わりで結構な量を持ち込んでいるのです。そうですね、少ない日で5000個、多い日は1万個運んできて、蔵の中に積み上げて行きます。やはり大人は一人が持ってくる量が違います。
江戸に送った分については、ちゃんと金程村の工房の売り掛け金として扱っています。薄厚練炭なので1個45文、送ったのは5万個なので現在562両2分の支払い分を付けています。ただ、精算・支払いは年末ですよ」
間違いなくしっかりしている。
工房の方も全員が生産に従事して、運搬は大人に切り替えたようだ。
店の表に出ると、御殿様が話かけてきた。
「義兵衛、江戸で世話になった加登屋はどこじゃ。そこへ案内せい。それから、色枠にした七輪を2個持ってこい」
御殿様は七輪を下げた義兵衛に案内され、街道の四辻にある加登屋へ入っていった。
加登屋・主人は御殿様を見ると、そのまま土間に跪いて平伏した。
「これ加登屋、顔を上げよ。先月屋敷にて披露して頂いた料理の礼がまだじゃった。ここに江戸で作らせた七輪を下げ渡すので、受け取って貰いたい」
驚いた加登屋さんが顔を上げると、御殿様は義兵衛に目録を渡すよう指示した。
そして、加登屋さんが目録を押し頂いて受け取るのを見ると、プイと横を向いて店を出ていった。
「江戸の御屋敷で披露して頂いた料理がことの他嬉しかったようで、特に若君が感謝しておりました。それで、その意を示したので御座いましょう。奥方様からもお礼の言葉があったようです。
それから、20日にまた料理比べの興業があり、加登屋さんには事務方として同席をお願いします。場所は、前回と同じ幸龍寺です」
義兵衛は感激で心が揺れている間に用向きを伝えた。
「ここまでして頂いて御断りはできません。20日には直接幸龍寺に出向きましょう」
確約を得て店を出ると、これから細山村に向けて進む一行が義兵衛を待っていた。
遅れた詫びを言うと同時に、出発となる。
義兵衛は馬の足元を気にしながら、五反田川に沿った津久井往環道を上流に向かい進んで行った。




