練炭委託生産先 <C2308>
お屋敷に戻ると、早速に御殿様への報告となった。
安兵衛さんと座敷に入り、下座に座して待っていると紳一郎様と御殿様が入って来て、いつものように平伏する。
「ああ、良い。気楽にせよ。ここは加賀屋敷ではない」
御殿様は、加賀金沢藩江戸屋敷での在りように懲りたのか、皮肉交じりにそう言った。
失礼にも思わず苦笑してしまうが、紳一郎様も同様であった。
確かに、加賀100万石前田様は大名の中でも別格ではあるが、家臣もその気位が高いというのも考え物かもしれない。
「御報告します。明日の御接待の人数変更につき八百膳・主人に直接伝え、間違いなく対応頂けることを確認致しました。
『昼膳の中身はお任せください』とのことで、問題は御座いません。『加賀金沢藩の御家来衆・田舎侍を仰天させてやりますぞ』という言葉も頂戴しており、存分に腕を振るって頂けることが期待できます。お代については、上膳の1脚160文(4000円相当)ですが、特製の特上膳を出して頂けると聞きました。8人前で1280文ですが、万一人数が数人増えても、このお代で良いそうで、年末決算・萬屋売掛金相殺という話で、今時点の持ち出しはございません。あっ、お酒は別でこれは出した分は頂くそうです」
御殿様からは『お代を気にせず』と指示されているが、勘定方としてその一端を担う義兵衛としては、紳一郎様の手前こう報告する必要があると考えた結果なのだ。
「御殿様、これは有難い話です。当家で接待せねばならない時は、今まで主に三段目料亭の『愛宕・佃長』を使っておりましたが、上客の場合は、これから行司・勧進元の八百膳を使うこともできる様になります。
義兵衛、でかしたぞ」
紳一郎様からお褒めの言葉を頂いたが、義兵衛のつもりでは「日本橋・坂本」や「向島・武蔵屋」といった大関級の高級料亭にも主人・女将・板長とは最早ツーカーの仲であり、椿井家としての選択できる範囲は萬屋さんを通じてだが格段に広がっていると思っているので、少し不思議な感じである。
料理比べの興業に目付として出席されていた御殿様は、その辺りのことは充分認識されているに違いない。
それにしても、驚くべきは紳一郎様が料亭の格を示す指標として料理番付の表を使ったことなのだ。
ここまで一般に浸透するということは考えていなかったが、よくよく考えればこのように便利なものが浸透しない訳はない。
元いた時代でも、某タイヤメーカが発行する料亭ガイドブックで、料亭についた星の数をやたら有難がる風潮があるのだ。
そう思った時、義兵衛は昼間見た湯浅様の驚きと笑みの表情を思い出し『なるほど、そういったことか』と合点がいった。
「明日の接待のことは良い。いずれにせよ先方の出方次第であろう。こちらの意図が素直に通るとは思えんが、そこは同席する御奉行様が援護して下さるじゃろう。
それより、練炭の生産委託先の件であろう」
御殿様は御見通しのようで、話が早い。
「はい、昨日に萬屋さんから入手した候補地4軒の書き付けを渡しておりますが、どこに絞るべきか見当がつきません。
大変恐縮ではございますが、御殿様のご意見を持って決めさせて頂きたいと考えております」
「うむ、そうであろうと思っておった。
ワシが見るに、下総国・印旛郡の名内村が良かろうと思う。領主の旗本・杉原新右衛門殿は顔見知りで互いに話をしたこともある。確か、知行は230石と昨日の内に調べておる。場所も、重量物やかさの張るものであれば、利根川の川船を使った輸送ができるので都合がよかろう」
下総国・印旛郡・名内村とは、竹森氏が元いた時代では、千葉県白井市で字は名内という名前になっている一帯を指している。
名内村は下手賀沼の南側にあった丘陵部にかかる村で、粟嶋神社と東光院(真言宗)を中心に小さくまとまっている。
なお、手賀沼と下手賀沼は場所が違っていて、下手賀沼のほうが若干下流で規模ははるかに小さい。
粟嶋神社は、関東には珍しく国作りで登場する淡島神を祭る神社で、今では少彦名神が祭神となっていることも多い。
さて、名内村の村域に接する下手賀沼を更に上流に辿ると、鳥見神社がある。
鳥見神社は、手賀沼・下手賀沼だけでなく印旛沼の周囲にも広く祭られている神様であり、饒速日命を祭神としている。
水害に見舞われることの多い地区では、こういった神頼みによって災厄を押さえ込む祈りが絶えないようだ。
村は北側に下手賀沼をかかえ、そこから村の両側に谷戸があり、下手賀沼に続く小川沿いに切り拓いた低地で水稲を作っている。
勿論、村主体で行う小規模な干拓により水田は下手賀沼に向って多少広がってはいるが、洪水でもとの木阿弥になるという一進一退を繰り返している。
村の南側は村に続く高台になっており水利が良くないことから水田としては開墾されず、結構広い面積が里山になっていた。
この里山を切り崩して大きな工業団地を作り工場を誘致したのは、隣の印西市に千葉ニュータウンが造成された後の時期で、それまでは広葉樹が多い森であった。
そして、稲作の閑散期・冬場にこの里山の木を伐り出しては、端材を薪や木炭にして売って現金収入を得ている。
村の規模は、細山村より少し大きい程度で、旗本の屋敷はなく、代官が年に何度か来て年貢を取り立てるだけの関わりであり、年貢関係を除いた自治は概ね名主に任せられている。
こういった事情は、後で判明してくるのだが、この村を選択した理由として御殿様が挙げたのが、江戸への物流の容易さだったことに義兵衛は驚いた。
川船による輸送もそうだが、陸路であれば利根川沿いの竹袋村(明治時期には木下村、現:印西市木下)から鎌ヶ谷大仏・藤原村(船橋法典)・本八幡まで通じる木下街道が整備されており、荒川を越えると江戸となる。
ちなみに、竹袋村から八幡村まで8里(約32km)の距離となっている。
竹袋村の手前に名内村があると言え、江戸を挟んで細山村と丁度反対の同じような距離にある村なのだ。
「昨夜の内に、杉原殿へは手紙を出しておる。ただ、ワシの所と違い、名内村の内部のことはあまり存ぜぬのであろう。万事、名主に任せており、そこで済まぬ場合は家臣を代官として派遣すると聞いた覚えがある。
そういった手配をしておるので、後は義兵衛、萬屋・奈良屋を通して上手くやれ」
こう段取りを済まされていたのでは、義兵衛が言うことは何もない。
後は現地へ出向いて名主様への挨拶、状況の確認と、委託生産の折衝、生産物の引き取り契約、現物の確認ぐらいしかない。
もっとも、実際に物を作らせるための折衝は、これほど難しいものはないのだ。
「はい、村での準備状況を確認してから、杉原様の案内を請い、お代官様と一緒に名内村の名主様の所へ伺います」
「うむ、そう言うと思って、手紙にはそのように書いておる。こちらの都合の良いときに、案内できるよう依頼しておるので、安心せい。
ただ、そこでどの程度練炭が作れるか、だけはきちんと見積もっておけ。
それから、昨日も深川より1000個の七輪が届いておった。長屋にいくら空きがあるとは言え、これからもまだまだ溜まるのであろう。積みあがっておる七輪を見ると、早く捌かせることをよくよく考えねばならん、と思うぞ。
里に戻る日を延伸して明後日の13日としたが、馬4疋を連れて戻る予定じゃ。それで、全部で100個の七輪を持って帰るつもりであるが、荷を乗せる馬は3疋じゃ。供の者にも何個か持って帰ってもらうこととしておる。これからも機会があれば、この屋敷から、登戸で借りた蔵へ移すことを行うのじゃろう。そのあたりのつもりについても紳一郎とよく話をしておけ」
18日にこの屋敷に戻ってきて、20日に料理比べの興業、その後に杉原様を訪ねて、そこから名内村に視察とやたら立て込んでしまった。
土の話も、明日12日の接待の具合でどうなるかの瀬戸際になる。
越中守様屋敷への日参もまだ軌道に乗ったとは言えず中途半端なままなのだ。
ギチギチに詰まった予定に、思わず頭を抱えてしまった義兵衛だった。




