加賀金沢藩・江戸上屋敷 <C2305>
■安永7年(1778年)6月11日(太陽暦7月5日) 憑依123日目
6月に入ってから10日程になるが、いろいろな場所を周り、いろいろと飢饉対策に繋がる思惑を進めるための話を進めている。
そういったことで忙しさに目が回っている義兵衛だが、今日はその盛り上がりの頂点となる加賀100万石の前田家江戸藩邸へ訪問する日なのだ。
加賀百万石前田家は、戦国時代・徳川政権成立の経緯から、外様大名でありながら将軍家との姻戚関係も多くあり、御三家に準じる扱いを受けた格式が高い家である。
当主の前田家11代藩主・前田治脩様は、この春に領国への就封(江戸勤めを終え領国へ戻ること)をしたばかりであり、現在江戸藩邸には不在中である。
そのため、義兵衛の要望を耳にした町奉行・曲淵甲斐守様は、江戸留守居役の御家老様へ面談を申し入れてくれたのだ。
もちろん、義兵衛の知りたい能登特産『地の粉』に関して価格などのことを聞きたいがためなのだが、御家老様への面談は御奉行様と御殿様だけに限定されてしまっている。
御家老様とはいえ、加州候配下の御家来は別格で大名と同じ扱いであり、御公儀で何の御役頭にもなっていない一旗本の御殿様が会うためにはある程度格式がある御奉行様の立会い・引き立てが必須というのは、この時代にあっては当然のことなのだ。
御殿様もこのあたりのことは承知しているようで、今回の訪問は体面を重んじ登城に必要な供周りに準じた面々を引き連れていく準備となっている。
「今日は、安兵衛は来ぬのか」
「はい、北町奉行所で曲淵様の供周りに加わると聞いております」
御殿様は義兵衛を含む一行6人を率い、隊列を組んでお屋敷を出た。
向かう先は呉服橋そばにある北町奉行所である。
隊列が道三堀にかかる銭瓶橋を渡った所で、正装した安兵衛さんが周囲を見渡しているのが見えた。
どうやらこちらが来るのを待ち構えていたらしく、椿井家の隊列を見ると奉行所の裏門・私邸側へ消えた。
隊列が奉行所の裏門を潜ると、すでに支度を済ませた曲淵家の家臣が庭に出て準備万端といった様子だった。
御殿様が裏玄関に近づくと、曲淵様がお見えになった。
「この度はご厄介をおかけ致します。面談についてはいろいろと便宜を図って頂き、誠に恐れ多いことでございます」
御殿様の挨拶に笑いながら挨拶を返した。
「いや、発展著しい椿井家の当主からの申し出じゃ。相手は大名の家老とは言え加州候の身内であろう。旗本よりはるかに格上であり、その面前でどのように貴殿が振舞うのかをしっかと見れる良い機会じゃ。覚えが良ければ椿井殿の猟官活動にも弾みが着くのではないかな。実は昨日から楽しみでしょうがなかった。
ああ、こんなところで無駄話も何じゃ。早速参ろう」
御奉行様一行は格に合わせて12人で隊列を組んだ。
曲淵家の家臣だけでなく奉行所の与力の者もいるようだが、今回は騎乗する馬もなく全員が徒歩であった。
加州候のお屋敷は、本郷(現東京大学:有名な赤門は加賀藩邸の正門:表御門)にあり、北町奉行所からは約1里(4km)の距離がある。
曲淵様が先に立ち、その後ろに御殿(椿井庚太郎)様の順に隊列を組み、呉服橋御門を通り日本橋を渡り、そのまま昌平橋まで進み、湯島坂・見返り坂のある本郷通りをどんどん進んで加州候の大御門へ到着する。
表御門は将軍様一族専用の御門であり、通常は手前の大御門(現理学部のあたり)を使用するが、今回の訪問では更に大御門の脇門を通って屋敷に入る。
御屋敷は、御殿様の広いと思った1000坪の敷地の100倍にあたる10万坪(=33万平方メートル)ほどもあり、大きな御殿がドンと建っている。
ちなみに、前田家から分かれた支藩も大名として認められており、この御屋敷に隣接してあわせて2万坪程の敷地を持っている。
比べると何だが、白河藩松平越中守の屋敷の敷地が約3300坪で大きいと思っていただけに、圧倒されてしまった。
御殿入り口の控えの間にお供の面々は入り、それぞれの殿の衣装を直すと、曲淵様と御殿様は前田家の小姓に案内されて奥へ消えていった。
同じく、椿井家からの手土産の七輪2個と練炭12個も別な小姓が引き取っていった。
供の控えの間で義兵衛は安兵衛さんを見つけると、隅の方へ引っ張り込んだ。
「他の供の者には聞かれぬように話をしたかったので、このような陰に連れて来ましたが問題ありませんか」
「面談は1刻程度はかかるでありましょうから問題はありませんよ。他の皆も手持ち無沙汰で、ほれ遊んでおりましょう。それで、何でしょうかな」
「今日御殿様がお目通りされる方がどなたか、ということを聞きたいのですが、何か知っておられますか」
「ああ、江戸留守居役の御家老様のことですか。確か、横山三左衛門様と申しておりましたかな。代々の家老で、加賀金沢藩より金沢近郊に2万石の所領を代々拝領しておると聞いております。ただ、江戸藩邸を実質的に切り盛りしておるのは、その配下の御算用場(財政担当部門)の御勘定役でございましょう。
なぜ『地の粉』に着目したのかを問われることになると思ったので、先々代将軍の折に編集された諸国産物帳に記載がある旨を私から曲淵様にしておりますよ」
確か『8代将軍吉宗様の時代に全国の物産をまとめた資料を作らせた』という話を思い出したが、『諸国産物帳』という名前であることはすっかり忘れていた。
字面からして、それで合っているに違いなさそうだ。
内容は全然知らないが、諸国産物帳に『地の粉』のことが特産品として出ているものと信じたい。
それにしても流石に加賀藩、100万石もあると家臣が拝領している御領地も2万石と大名並みだ。
2万石というとそこで暮らしている民は2万人程いるに違いないし、その5%が武家としても1000人位は女子供を含めて御家老が養う格好になる。
藩に仕えながら、5公5民として1万石の収入で切り盛りするのは辛いことだと思える。
ましてや、江戸在住の御家老だ。
藩の金庫で足りない分は持ち出しをしているに違いない。
義兵衛は、こういった推測を安兵衛さんに語った。
「義兵衛さん、ここではそのようなことを軽々しく口にしてはなりません。卑しい者という評価を受けますよ」
確かにその通りだ。
義兵衛は小声でお礼と反省の意を示した。
こういった小声でのやりとりを繰り返して面談が終わるのをひたすら待つ。
そうするうちに、椿井家のお供の方が、曲淵様のお供の中に以前屋敷の警備に来た人を見つけて話しかけている。
それをきっかけに、両家臣の間で話の輪が広がっていった。
何の話をしているのかは判らないが、時折『ワッ』と笑い声が聞こえてくる。
こうして時は過ぎていくが、曲淵様と御殿様が戻られるまで、安兵衛さんが予測した通り、おおよそ一刻ほどかかったのだ。
土の話が周りまわって加賀金沢藩とかかわりが出来てしまいました。江戸屋敷を預かる御家老様とはどういった話が展開されていたのかは次回です。
このあたりの時代背景や領国のこと、江戸とのかかわりは調べれば調べるほど、断片ばかりが入ってきて全体像が見えてこなくなります。




