馬選び <C2302>
越中守様の御屋敷の座敷で御殿様が独り言のように述べる。
「今回の興業で目付役を譲る件は、どうやら喜んで頂けたようで、まずは安堵じゃ。馬役には明日こちらの屋敷に来るように言っておかねばならぬの。これで屋敷に5疋の馬が揃うが、内4疋は明後日にも里へ戻すことにしよう。屋敷へ飼葉もまた運んでこねばならん。
甲三郎が江戸務めになって里の館を守る爺も困っておろう。ワシも一度里へ戻るとしようか」
慎重に余計なことを言わないように用心していることが良く判る。
「椿井様、私も義兵衛さんに同行して御領地に伺ってもよろしいでしょうか。町奉行・同心の戸塚様が時折椿井家の御領地の話をなさるのですが、やはり聞くのと見るのでは大違いではないかと思っているのです。
特に、練炭を作る工房ではまだ年端もいかない村娘達がそれぞれ班長となって指導しているとか。そして班長の配下には椿井様の家臣の子息達も居るとか、是非この目で見たいものです」
安兵衛さんが工房を気にしており、是非見たいと訴えている。
御殿様は気楽に了解した。
丁度その時、座敷の下座側の襖を開けて、御家老・奥沢様が現れた。
「それでは、当家の馬を御見せしよう。ここからは宮久保が案内する。ご希望の馬が見つかれば、宮久保に申しつけておくが良い」
宮久保弥左衛門様は、義兵衛が最初にこの越中守様のお屋敷で案内を乞うた時に対応してくださった方で、陸奥白河藩・江戸留守居役代理という立場だが、おそらく江戸藩邸の経理全般を掌握されている方に違いない。
義兵衛が小声でその旨を御殿様に伝えると、御殿様は挨拶をした。
「旗本・椿井庚太郎と申します。ご厄介になっております。この度も、また馬のことで御面倒をおかけしますが、よろしくお願い申し上げる」
そして一同は宮久保様に引き連れられ厩舎へ向かった。
「我が殿におかれましては、先日椿井様がお見えになられた時から随分とご機嫌が良く、先ほど座敷から戻られた時も満面の笑みでございました。御聡明なお方ではございますが、いつも思案にくれた難しい表情をなさっておられますのでなかなか近寄り難い思いを皆はしております。滅多なことで笑みを浮かべることはございませんが、椿井様はなにか秘訣でもお持ちなのでございましょうか」
宮久保様の話に加え御家老・奥沢様の越中守様への対応の様子で、どうやら家臣に厳しく何かを求める姿勢を貫く方なのであろうことを感じた。
己に厳しく、そして自分を律しているのと同等な姿勢を家臣にも求めているのだろう。
なので、家臣は恐れの念で接するようになり、自分の意見を具申するということもなくなる。
そうすると、対等に近い話をする相手というのが限られてきて、気軽に生きることも難しいに違いない。
今の時点で、越中守様はまだ20歳の多感な若者で、潔癖とも思われる思想を回りに強いていることで、敵を多く作っていることも想像に難くない。
そこへ、口の上だけかも知れないが「領民のことを大事にする」という理想を実践しようとする39歳・倍ほどの歳の旗本が現れて、ぶつける質問に丁寧にしかもそれ相応の答えてくれるのだ。
今のところお互いに損を被る関係では無く、話相手にするには都合が良いのだろう。
「越中守様はまだお若い。理想に燃えておるのはわかるのだが、ちと人当りが厳しいゆえ、御家中の中には敬遠なさる方も多かろう。相当に御聡い方ゆえ、そこは判ってはおられるのだろうが、なかなか辛抱は難しいのであろう。
御家中の方にとっては何より御殿様という立場で見るので親しくできはせぬのであろうが、そういった枷がなく話を聞いて相槌を打てるというところが私の有利な所であろうなぁ」
御殿様の鋭い分析に義兵衛は恐れ入っており、宮久保様は『なるほど』と頷いている。
やがて厩舎につくと、御殿様は熱心に、そして丹念に居並ぶ馬を見て、やがてその中から2疋を指し示した。
「こちらの馬を御要望ですか。少々意外な感はありますが、なかなか良い馬を選ばれましたな。2疋合わせて13両(130万円)で御譲りいたすことになります。
どういった観点でお選びになったのか、参考のためお聞かせ願えますかな。後で我が殿が聞かれるので是非お教えくだされ」
馬の値段を即答するというのは、なかなかのものだ。
意外な感という言葉に、義兵衛はひっかかりを覚えた。
「うむ、騎乗用のものは先に有難く頂いた馬で充分であろう。今回は小荷駄に使うことと里での繁殖のことを考えておった。今屋敷におる3疋と娶せるには、どの2疋が丁度良いか、組み合わせを考えておったのよ。
それで、代金13両は明日馬を引き取りにくる者に持たせるゆえ、御受け取り願いたい。
此度も良い目の保養をさせてもらい、おまけに良い馬までとても安価に入手できて感謝いたしますぞ。越中守様には是非宜しくお伝えくだされ」
馬の要件も終わり、控えの間で着替えを終えると、越中守様の御屋敷を後にした。
「義兵衛はこの後萬屋に寄り、明日の加州様への手土産用の練炭を、そうさな、12個ほど調達してまいれ。なに、ワシはこの恰好じゃ。供無しの一人で帰ってもややこしいことにはならん。明日のことは、加州公の御家老が相手であろうから大したことでもない。それより、料理比べ興業の目付役変更のことや、それ以外にも抱えている案件を、早う片付けてこい。思うたより9月までは日がないぞ」
一見ぼんやりしているように見える御殿様だが、これは理解がある上司なのか、それとも厳しい上司なのか、義兵衛の思うその先を見通して声をかけて来る。
義兵衛は、ここでどうしても聞いておきたいこと、先の宮久保様の『意外な感』を質問した。
「はい、ご心配をおかけしておりますが、必ずやきちんと致します。
ところで、馬を選ぶ折に『これが一番』と思われたものを敢えて避けておられた様にお見受けしましたが、実のところ如何でございましょう」
実の所、義兵衛は馬を見る目を持っていないが、御殿様の様子から馬につけた順位を察していたのだ。
「うむ、よう見取ったな。今1番良いものを選ぶのは容易い。しかし、それを選んでは角も立とう。今一番の旬より、来年に旬が来る馬こそ里が必要とするもの、と考えたまでよ。生き物を相手にするには長い目で見ることが重要なのじゃ。
留守居役代理が『選んだ馬に意外な感』と言っておったが、これは手元しか見ていない者の言い草よ」
この返事を聞き、御殿様の普通ではない視点に安兵衛さんは目を剥いた。
だが、義兵衛には納得できる答えだった。
義兵衛にとり評価に難しい上司・椿井庚太郎様と京橋を渡る手前で別れ、萬屋さんの暖簾をくぐった義兵衛と安兵衛さんだった。




