御殿様、越中守と面談 <C2301>
■安永7年(1778年)6月10日(太陽暦7月4日) 憑依122日目
八丁堀の松平越中守様上屋敷へ、御殿様が御忍びで訪問する日である。
義兵衛は、昨夜の内に紳一郎様を交えて御殿様といくつかのシナリオを検討した。
相手があることなので、おそらくはその通りにはいかないだろうが、どのような場面があっても返答することを止めないように考えておくことが重要なのだ。
やがて早朝にもかかわらず安兵衛さんが屋敷に顔を出した。
「我殿からの伝言にございます。加州公(加賀100万石藩主前田様)の上屋敷に居られる江戸留守居役の御家老様が、明日11日に事の次第を聞いて下さる、とのことでございます。明日は朝に北町奉行所へ御出で頂き、その後我殿と御一緒に上屋敷へ向かうと都合よい、と申しておりました」
早速に曲淵様が動いてくれたようだ。
どこの世界でも、いつの時代でも出来る人物はやることが早い。
「ただ、ご面会できるのは我殿・曲淵甲斐守様と旗本・椿井様だけで、付き人は交えず玄関脇で控えよ、とのことでございます。
知りたい内容は全て義兵衛さんが握っておいでですので、それを書き出すなどして順位付けしておく準備が要りましょう」
かなり難儀なことだが、こちらが聞きたいと申し出て受けてくれているのだから、その位の条件を飲むのは道理というものだ。
「おおよその所は義兵衛から聞いておるので問題はなかろう。その御家老様とて全部の質問に答えることができる訳でもないので、御家老様を通じて能登の特産品に詳しい勘定方の何某を紹介してもらい、義兵衛と会う段取りを済ませれば良い、位に考えておる。
正直言って、ワシにも『産地の事情を聞いて、どうすれば江戸での土の値段を下げさせるのか』ということは思いもつかん。
まあ、ワシにも説明せんということは、まずは仕組みを知らんことには知恵も出んのじゃろうて」
御殿様の言うことはもっともで、義兵衛とていろいろ聞いた先に出てくる知恵なので、今は説明もできないのだ。
「まあ、そのことは明日のことじゃ。まずは、目先の越中守様への御礼をきちんと済ませることを念頭に置かねばならん。手土産の七輪の練炭だが、昨日持ってきてもらった8個は越中守様に渡すとして、加州公様への分は帰りにでも萬屋によって仕入れておけ」
細かい所まで御殿様は気にしている。
こうして話す間に出かける刻限が来た。
安兵衛さんにお願いして衣装箱は持ってもらったが、七輪2個と練炭8個は義兵衛が背負子に載せて担いでいく。
義兵衛は一応武士でそれなりの服装なのだが、背負子を負う姿が妙に板についており、外見に違和感がある。
出自が百姓なので仕方ないのだが、早く先方宅に着きたい義兵衛の気持ちに反して、いつも通りの一定の歩みで御殿様は歩いていく。
おおよそ半刻(1時間)ほどかかって八丁堀の越中守様上屋敷に到着すると、待っていたかのように脇門が開き、屋敷内へ招き入れられた。
そして、控えの間で御殿様は着衣を改めると、越中守様と面談する座敷へ向かったのであった。
留守居役の奥沢様と一緒に越中守様がお出ましになると、御殿様は丁寧に御挨拶と馬の御礼を言上し、持参の七輪と練炭を献上した。
そして、20日に幸龍寺で行われる料理比べ興業の目付役席の件を切り出したのだった。
「我領地はこれと言った特産もなく、良馬を2疋も頂いた御礼として、なかなか引き合うものもございません。そこで、料理比べの興業で、当家が一枚噛んでおる関係で得ている20日の興業の目付役席、椿井家預かりとなっている席を越中守様へ献上させて頂ければと考えた次第でございます」
前回の興業の件は御存じであり、今回の取り組みを説明すると料亭『百川』が出てくるくだりで大変興味が出てきたようであった。
ただ、紙にしたためた行司席・目付席の割り振りを見せての御殿様の説明に、少し苦い顔をした。
「興業で審査の折には行司役・目付役の間でお話されるようなことは御座いませんが、審査が終わりますと、行司役・目付役の面々が懇親の場を持ちまする。前回は町方の者が御奉行様との伝を確認するかのように群がっておりました。
今回は、町方の者が少なく、武家枠が多くござりますので、前回のように入り乱れてという形にはならぬと存じおりますが、色々な方と直接お話されることで良き知己を得られることは間違いございません」
「しかし、これはまた御老中様の息がかかった者達ばかりが集まっておるではないか。ワシにはちと息苦しいのぉ」
「いいえ、だからこその機会ではないでしょうか。表には書かれておりませんが、懇親の場には事務方の一員として私も控えております。その場には裏方を仕切っているこの細江義兵衛も居りますので、何かのお役には立つと存じまする。どうか当家から献上する目付席を御査収頂きたくお願い申し上げます」
この言葉で、多少躊躇していた越中守様は了解した。
「それからお願いが御座います。当家で頂いた馬2疋ですが、とても素晴らしい馬でして、願わくば、もう2疋を当家で購入したいと考えております。明日にでも担当の者に伺わせたいと考えており、是非御家中で関係する係の方へお声掛け頂ければと思う次第でございます」
「うむ、前にも申したが、当家にある馬を椿井家が購うのは一向に構わん。帰りにでも目星をつけておくのがよろしかろう。
奥沢、明日にでも椿井家の手の者が来よう程に、手配しておけ」
横奥に控えていた江戸留守居の家老・奥沢様が平伏し鋭く「御意」と返事をした。
「それで、今日呼んだ狙いじゃが、椿井家の里ではこの春から殖産に励み、飢饉の折にも領内の百姓供が飢えぬよう備えておると先日も聞いた。その後、高石神社で巫女が降した神託のこと、そして全てはこの大飢饉を乗り切るための施策である、と聞いておる。
それで、陸奥国全体で長きに渡り不作になる、という神託の対策について思う所を話し合いたく呼び出した訳じゃ。我が白河藩も奥州の一部じゃからな。
ああ、それと領地の殖産が上手くいっているとも聞いた。その秘訣も是非聞かせてもらいたい」
御殿様には以前義兵衛が説明した内容を話しており、越中守様の問い掛けに驚くこともなく、領内の状況を丁寧に説明していった。
里の構成、細山村の新田開墾、皆寺子屋制、江戸屋敷の緊縮財政対策、飢餓対策用の種籾蔵増設、米問屋からの種籾買い上げなど、昔からの取り組みや、義兵衛の献策で行おうとしていることなどである。
「このように色々な取り組みをしておりますが、一番重要であるのが村人に一人の例外もなく読み書きでき数を数えることができるようにさせることでござります。この制を始めた理由はしかと判っておりませんが、先々代の頃から取り組み60年かかってやっと芽を出しましてございます。これが無ければ、殖産も実を結ぶことがなかったと考えまする。
同年代の者を、小作の娘も武家の息子も、一斉に同列で学ばせるのでござりまする。私も同席して学ばされ申した。こういったことも手伝ってか、家臣が江戸屋敷で畑作するのを厭わないという風潮は得難きもの、と思うておりまする。幼き頃から寺子屋の面々を観察しておると、ある面で私より秀でた者が居るのは判りまするゆえ、そういった者に目をかけ活躍できる場を与えるのでございます。私の接しない者もおりまするが、そこは寺子屋の師範が見ておりますので、簡単な諮問で人物を引き立てることもできるのでござりまする。
これも里全体で500人という限られた人数にてこそ出来る技でござりまするゆえ、果たして御大名の御殿様にどこまでご参考となれるのかは心配ではありまする」
義兵衛が説明した内容と矛盾はしておらず、ひそかに安堵の息を吐いたのだった。
その後も、越中守様は何点もの質問をし、御殿様はその問いに丁寧に返答することを繰り返し、話し合いは終了した。
「此度は大儀であった。また話を聞かせてもらうこととしたいので、その折は例の丁稚を通じて連絡する。
それと、料理比べの興業、何やら楽しみになっておる。感謝するぞ」
満足した表情の越中守様はこう述べると退室していった。
すっかり3人だけになると、御殿様はこっそり溜息をついたのだった。
白河松平定信様、実は天明3年(1783年)に義父・松平定邦様が隠居してから御殿様となります。
なので、この小説の時点(1778年)では、御殿様は松平定邦様で、松平定信様は若様なのです。
しかし、このあたりを直すと影響が結構大きいので、お目こぼしください。
(義父・松平定邦様は1775年に中風を発病しており、早めに隠居したという実史と異なる設定と強弁したりして)




