飢饉とは言ったけど、まずは整理しよう <C203>
物価や両替は時期によって変動幅がありますが、いろいろ調べてとりあえずの数値で話しを作っています。よりよい情報をお持ちの方、コメントを頂ければ助かります。
俺は憑依している義兵衛に事情を説明し情報を引き出した。
「俺が未来から来たという直接的な証拠は提示できないが、今ここにはない知識を提供することができる。
義兵衛さんに憑依する前は26歳のサラリーマンとして働いていたので、世の中がどんなに世知辛いのかも多少は知っているし、多少の未来知識を持っている。
こういったことを生かして、村を豊かにしてもらいたい。
四年後に来る飢饉に備えてもらいたい」
「あなたが、たちの悪い憑き物かどうかの判断はなんとも言えないが、僕に何かが摂り憑いてしまっているという事実はどうしようもないようですね。
何年か後に日本全体を飢饉が襲うという話は、今は信じることはできませんが、飢饉の有無とは別に、今ある村が少しでも豊かになって村人の生活にゆとりができるなら、あなたの意見を聞いてもよいと思います」
とりあえず拒絶されるようなことはないようだし、歴史や未来の様子をあれこれ聞く様子もない。
もっとも、新しい状況にまだ混乱しているだけかも知れないのだが、これは俺も同じことだ。
まあ、俺はラノベでたっぷり仕入れた移転ものの知識があるからこその余裕なんだけどな。
「まあ、たちが悪いかどうかは、俺が仕掛けようとするいろいろなことを試してもらう内に判ってくれればいいさ。
では、さっそくこの村のことから教えてくれ」
「では僕の知る範囲のことを話していきますが、要点を紙にも書き出して整理していきましょう」
聞き取った内容を整理してみた。
この村を含む周囲のいくつかの村は、幕府旗本の椿井庚太郎様が殿様として治めている。
椿井家は元々織田信長の家臣であったが、徳川家光様の時代に喜之助様がお小姓組となってこの地に知行を与えられ、その子孫である。
同じ殿様が治めている周囲の村は、細山村、万福寺村であり、知行高は合わせて約300石である。
旗本は、蔵米取という領地を持たず俸給米だけを下される形のものも増えてきているが、椿井家はかなり早い時期に旗本としての地位を確立したため知行地を持つことができた。
そのため領地を持つ領主として、細山村に館を構え、年貢の決定・徴収権、領民使役などの領主権を使って村の運営に直接かかわっている。
とは言え、いつもはサラリーマン然としてお城勤めがあり、殿様とその嗣子=世継ぎの息子は江戸城下にある武家屋敷に居り、以外の一族が細山村の館に住むという当主は二重生活を送ることになっている。
まあ、実家は隣村にあって、家長とその息子が江戸に単身赴任という感じなのだ。
年貢は、基本は五公五民となっているが、定免法が推奨されてから、この金程村では毎年35石を納めることが決まりとなっている。
ただ、椿井家自身がその自出の影響からか、開墾の奨励や農業以外の現金収入にも理解があり、年貢についても作柄に応じて農家が荒廃しないよう相談はできるようだ。
その金程村だが、伊藤義兵衛の家も含め農家を専らに行う家が五軒と、大工や樵などの農業に依らず生計を立てる家が一軒の計六家族、総勢五十人がまとまって暮らす極めて小さい村だ。
作っているのは70石の米と若干の麦で、それ以外では木炭を作り売るだけという生産性の低い農村である。
土地は、赤土という火山灰が基本のやせた土壌である。
作物を育成するための水は湧水に頼っているため、雨の具合で旱魃になりやすい。
このため、豊作・不作の幅は大きい。
平均的な取れ高は70石で、たとえ毎年平均的に米が出来たとしても、毎回年貢の米35石を納めてしまうと、残りが35石しかなく、そのままでは15人分の食べるものが不足してしまう。
そこで、木炭を作り、これを直接商家へ卸して約15両の掛売りを作り、それを年貢に当てる方法を編み出している。
これにより、年貢米としては20石を細山村の館に納めることで済まし、村全体で必要な50石を確保していることが判った。
ちなみに、米一石は一年間に一人が消費する米の量=150Kgに該当し、俵=60Kgでは二俵半になる。
米一石は、金一両に相当しており、平成の価値で見ると金一両=10万円相当になっている。
金一両は銭4000文に相当し、平成の価値では銭一文=25円相当だ。
銀はまだ一分銀は登場しておらず、このため一応塊での価値は持たずに重量で測る秤量貨幣で、1匁=100文=2500円相当である。
ただし、江戸時代260年の間の米中心経済では物価や貨幣価値の変動・需給関係から、この相当の値が色々と変動するのである。
なお、金程村の平年の石高70石は、米の重量として約10トン。俵にして175俵。年貢の20石は50俵になる。
毎年収穫が終わると、この50俵を皆でかついで殿様の館にある蔵へ運んでいく。
年貢を納めた残りの125俵は名主の家にある蔵に一時蓄えられ、各家に毎月配分されていく。
旱魃など不測の事態に備え、余剰米を管理するのも名主の重要な役割だが、翌年に撒く種籾を入れても端境期にせいぜい50俵程度しか残っていないことが普通という感じであった。
年貢として、各村から殿様の館に集められる米は約100石あり、その内70石程度を特定の出入りの商家に卸している。
残り30石が旗本・椿井家自身が1年間に消費する米に相当する。
これ以外に各村の特産品で掛売りした50両分が椿井家の取り分となっている。
内15両が金程村から提供されたものなのだ。
椿井家の収支は年間約120両であり、この枠で家の格式を整えるのである。
このような仕組みで村と殿様の経済が回っている。
掛売り分がそのまま殿様の取り分であることから、最終的には金程村が木炭を掛売りしている商家は殿様出入りの商家と同じになっている。
旗本も名主も、経済活動は基本的には掛けとなっており、年一回、年貢米や掛売りを商家で清算することで収支を付き合わせている。
このため、行商に行ったり旅人を相手にする場合は別だが、村民が普段銭を手にするということはない。
これで、だいたい経済的な流れは見当がついた。
「もし、天候不順で米の収穫量が3割減少するとどうなるのかを具体的に考えてみよう」
俺は義兵衛に話しかけた。
「平年では175俵取れる米が123俵しか取れなかった。
ここから平年通り年貢で50俵納めると、残りは73俵。
村人の50人で1カ月10俵の米を消費するので、7カ月は食べるものがあるが、5カ月は食べるものがない状態になる。
食べる量を2割減らしても9カ月しかもたない」
「人減らしをするのも一手だが、73俵では30人を養う量でしかない。
数人なら奉公に出すことも出来るだろうが、10人もの人を村の外に出すと、今度は農作業の人手すらなくなることになるので現実的ではない」
「年貢の50俵を同じ割合で減らしてもらうと15俵手元に残るが、これとて6人分の食い扶持に過ぎない。
しかも、天災ならば近隣も同じ状況なのだろうから、殿様のところに集まる年貢米が同じ割合で少なくなることを簡単に認めないのではないかな」
米の出来が3割減少という程度で現れる影響を具体的に示すと、義兵衛は衝撃を受けたようだ。
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