八百膳での寄り合い開始 <C2293>
今日の事務方寄り合いに北町奉行・曲淵甲斐守様が参加されるという話を安兵衛さんから聞かされ、仰天している千次郎さんを後目に、どうすれば行司枠の思惑を通せるかを義兵衛は必死に考えていた。
千次郎さんが呻き声と一緒に声を絞り出した。
「前回の興業の収支報告はともかく、今回の興業の収支見込は、あやふやな寄進・見込みが多いし、そういった中で行司・目安席の権利を売ることでやっと採算がとれると説明することは結構難しいと思うのです。もし、席の入札について『不届きである』という沙汰が下ると、どうしようもなくなります。行司2席、目付2席で座に130両(1300万円)の収入がないと赤字興業になってしまいます。御奉行様にこのような事情を御説明して素直に御認め下さるものでしょうか。
入札の結果、金額が不足する場合と大幅に余る場合の扱いについて、善四郎さんと意識合わせができて居りません。もし、御公儀に新たな冥加金を科せられたらどうすれば良いか、全く見当もつかないのです」
千次郎さんは、やはりなかなか正直な人で、だからこそ、いろいろなことを想定して受け答えを準備しておく必要があるのだ。
「まず、今日の越中守様宅への御用聞きは、萬屋さんの丁稚に頼んで頂けないでしょうか。特段何もなければ、椿井家の細江紳一郎様にその旨連絡すればよく、もし御用があれば八百膳まで連絡を頂いて私が対応します。
それで、前回の興業の収支で萬屋や八百膳、行司をした料亭からの持ち出し分は赤字として今回の興業へ付けを回しましょう。八百膳の特別膳もありますが、どれも1膳100文(2500円相当)という換算で、各料亭から提供分もお金にしてしまえばよいのです。興業が赤字であれば、冥加金の話も下火になりましょう。参加者からの寄進で辛うじて成り立っている興業であれば、無理にとは言い出しにくいはずです」
義兵衛の話に千次郎さんは納得した。
そして、まだ台所で試しを続けている坂本の板長さんに声を掛け、忠吉さんに後の段取りを頼むと、安兵衛さんと義兵衛を連れ浅草・山谷の八百膳に向かったのだ。
「おはようございます。萬屋の千次郎でございます。今日の進行のこともあり、かなり早くにお邪魔します」
勝手知ったる料亭・八百膳の脇口から料亭の中に、千次郎さんはずかずかと入っていき、安兵衛さんがキョロキョロしながらその後に続く。
料亭は建て増しに次ぐ建て増しで訪れた初心者には迷路のようになっているのだ。
やがて一行3人は、2階で丁度善四郎さんが卓を広げている広間に着いた。
「御奉行様はこちらの上座側にお座り頂き、御付きの方はその斜め後ろに座ってもらいましょう。それで、寺社奉行からの方はこちら、幸龍寺のお坊さんはこちらでしょうかね。そちら側(下座)は、版元さん・千次郎さん・義兵衛さん・ワシですな。安兵衛さんは御奉行様の家来ですが今回は義兵衛さんの後ろに座って頂きましょう。全部で9名分の座布団を置いて、それから昼膳の用意は良し、っと」
紙と硯・筆を置いた文机も部屋の片隅に用意しており、丁稚が墨を磨っている。
座敷の準備が整ったところで、今日の議題の段取りについて、千次郎さんと善四郎さんは話し合いを始めている。
ここまで来ると、もうなるようにしかならないのだ。
せめて話が逸れないように脇道に入りかけたらもとに戻すようするのが肝心なのだ。
細かい話になっているようで、二人の話は結構熱が入ってきた。
できれば昨夜の内に済ませておきたかったのだが、辣油作りにホイホイ行ってしまったのが善四郎だけに仕方がない。
やがて、参集する人がボチボチ集まり始めた。
版元さん、幸龍寺のお坊さんが来て、そして同心・戸塚様と一緒に曲淵甲斐守様が入ってこられた。
一同平伏して迎えるなか、少し遅れて寺社奉行の家臣・佐柄木様、続いて寺社奉行の太田備後守様が入ってこられた。
下座に座る4人は仰天した。
曲淵甲斐守様は旗本であるが、太田備後守様は歴とした遠州掛川藩5万石の藩主であり大名なのだ。
ちなみに、3奉行と呼ばれている勘定奉行・町奉行・寺社奉行のうち、前者2奉行は旗本で出世できる最高位であり、寺社奉行には大名しか成れない。
そして大名の藩主がこのような下々の企てに、直に首を突っ込むということは聞いたこともなく、一般にそうそうあることではない。
町奉行様が来られること自体異常事態なのに、寺社奉行様までということはもう想定外なのだ。
安兵衛さんからも事前にそのような素振りもなく、本人自身も驚いている。
「八百膳には何度か来たことはあるが、昼前から居るということは今まではなかったのぉ。これもまあ一興よ。ここではどんな話を聞かせてくれるのかな」
太田様はのんびりとした口調で話すが、曲淵様以外はひたすら頭を下げて畏まったままになって固まっている。
太田様が席に着くと、その後ろに佐柄木様も座り、皆がとりあえず落ち着いてから曲淵様が事情を説明し始めた。
「皆、そのように畏まることはない。太田備後守様もワシもお忍びでの訪問じゃ。20日の料理比べの興業について、明日緊急の寄り合いが予定されておろう。明日は座の集まりゆえ、ワシ等は顔を出せぬのが道理じゃ。とは言え、興業には武家窓口としてワシの所も1枚噛んでおろう。ならば、事前の事務方の集まりで、皆の話に意見させてもらおう、というのが寄せてもらった趣旨じゃ。
それで、事務方として寺社奉行も窓口の一つとなっておる備後守様に事情を説明して誘ったところ、この通りじゃ。
実はこの興業、城中でもひそかに評判となっており、御老中様が興業の動向を気にし始めておる。
そして、御老中様は家中の者をこの興業に参加させたいそうじゃ」
版元さんも善四郎さんも、幸龍寺のお坊様も息を呑んでいる。
あの田沼意次様が注目しているとなれば、その根回しとして寺社奉行様・町奉行様が揃い踏みするのもあり得る話だ。
迂闊なことにやっと気づいたのだが、曲淵様も太田様も田沼派なのだ。
太田様は遠州13郡の中の掛川藩、田沼様は同じ遠州の相良藩、大名として田沼様は新参者ではあるがご近所ではないか。
そして、それぞれの者から『面白いものがある』という話が入ってきて、気にならない訳はない。
義兵衛は内心納得したが、ご老中様が関心を寄せているという言葉に千次郎さんは汗を噴出している。
さあ、事務方の取りまとめである千次郎さんは、ここからどう切り出して行くのだろうか。
相手は今一番権威がある、そして権力も握っているご老中・田沼意次様をバックにしているのだ。




