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料亭・坂本の焦り <C2290>

 千次郎さんが茶の間から顔を出したところ、店の土間から女性の甲高い声が響いてきた。


「日本橋・坂本の女将で御座います。今宵はもう店を閉めてこちらへ伺いました。義兵衛様もこちらに御出でなのですよね。皆様で坂本をお助けください」


「忠吉、通してあげなさい。

 それで、坂本さん。何事ですか」


 女将だけかと思いきや、その後ろに従えた主人と板長の併せて3人が茶の間に現れた。


「今回の料理比べで、浮橋・百川から勝負を挑まれていることを主人より聞きました。立場から応じなければならないのは道理でございますが、このままでは日本橋・坂本の名は地に落ちます。

 萬屋様から伝授頂いた『しゃぶしゃぶ』と『ポン酢』『胡麻ダレ』を出して繁盛してはおりますが、坂本はそれだけの料亭でございます。本格的な仕出し膳を賢く作っている百川と比べられたら、勝負にならないでしょう。番付では『大関』を頂いておりますが、このまま同じものを出しては、とてもかないません。主人は千次郎さんと善四郎さんの説得に応じ、勝負に出ることを了解したと聞きましたが、今からでも勝負しないことにできないか、その相談に飛んで参った次第です」


 青い顔をした女将の後ろに立つ坂本の主人と板長がうなだれている。

 女将の言い様に版元の目が怪しく光っている。

 善四郎さんが、机の上の取り組みが書かれた紙を見せながら口を開く。


「そのような訳には行きますまい。今朝ほど興業の新しい方法について一緒に料亭に説明して回ったではございませんか。立場が変わると言い方が変わるというのは如何なものですかな、ご主人。

 そして、このように、もう取り組み表は出来上がっております。ここに居る版元さんに伝えておりますよ。大関と小結の勝負は今回の興業の目玉に違いありません。この取組は大評判になりますよ。

 なに、まだあと10日以上もあるではないですか。今ある料理に若干の工夫をすれば良いだけのことでございましょう。坂本は熱心で優秀な板長さんと、しっかりとした舌をお持ちの御主人が居られるではないですか。だからこその『大関』とワシは見ておるのですぞ。

 実際に一緒に仕上げた『胡麻ダレ』は見事な出来ではないですか。まあ、そこに突っ立ったままではなく、こちらにお上がりなさい」


 板長が口を開いた。


「大評判も何も。勝ててこその大関です。金星をやる側になるということは暖簾に泥を塗るようなものです。

 今はここで教えて頂いた料理でやっと保っているようなものです。『胡麻ダレ』も善四郎様のご指導があってどうにか物にできました。これを上回るものなんて、私にはトンと見当がつきません。だからと言って、以前から出している普通の料理では、悔しいですが、あの百川にはとても太刀打ちできません。互角勝負ならまだしも、ここで百川の足元にも及ばないようなことになって、惨敗する訳には参りません」


 確かに萬屋さんが贔屓にしていた店、というだけで最初に料理を売り込んだことが始まりで、今の状態に追い込まれている。

 相手はあの八百膳率いる善四郎さんが唸る程の勢いがある料亭「百川」なのだ。

 せめて互角の勝負にならないとどうしょうもない、というのは理解できる。

 そこで義兵衛は口を挟んだ。


「坂本さん、今そちらで出されている『しゃぶしゃぶ』で『胡麻ダレ』の料理を持ってきてもらえませんか。そうですね、丁度7人分ですか。ちょっと工夫できる余地があるかも知れません。

 それで、細工の材料として胡麻油と赤唐辛子を沢山、それに八角、桂皮、陳皮、生姜、ネギを少々用意してきてください」


 義兵衛の指図を聞き、坂本の女将は主人をこの場へ残し、板長と一緒に店へ取って返した。

 善四郎さんは『胡麻ダレ』を初めて聞いた時にした興味深そうな顔になっている。


「おやおや、今度は何が飛び出すのでしょうかな。千次郎さん、こりゃ坂本から沢山の寄進を頂くことになりそうですぞ」


「もちろん、こうまでして頂けるのであれば、この坂本は出し惜しみなどしませんぞ。義兵衛様には『胡麻ダレ』の御礼もまだ出来ておりませんので、それも併せて致しましょう」


「義兵衛さん。なにやら、武蔵屋の女将が怒鳴り込んできた時のことを思い出しますな。今回は何ができるのでしょうか」


 千次郎さんが呑気そうに声を掛けて来るが義兵衛は必死なのだ。

 そして、今まで料理比べの興業をどうしようか、という雰囲気は茶の間からすっかり消えてしまった。

 坂本から、丁稚に手伝わせて料理と指定した材料を持った女将と板長が戻ってきた。

 義兵衛は坂本から持ち込まれた7脚の膳と材料を前に説明を始めた。


「『胡麻ダレ』に追加する薬味をこれから作ります。それをラー油と言います。

 辛味のある油で、胡麻ダレに少し加えることでタレの風味の深さが増します。

 主に使う材料は、ごま油と赤唐辛子で、それ以外は香りと味を調える材料となります」


 坂本の板長さんを相手に萬屋の台所を借りて辣油作りを始めた。

 義兵衛と板長の両脇を坂本の主人と善四郎さんがガッチリと固めて、何一つ見逃さないよう見入っている。


「赤唐辛子を擂鉢すりばちに取って細かくしておいてください。

 それから、ごま油を熱し、そこにちぎった赤唐辛子を入れます。唐辛子の中の辛味・香りが油の中に移るように混ぜていきます。油に赤い色が付くことを目安にしてください。八角、桂皮、陳皮、生姜、ネギも適当に入れます。これは隠し味のようなものです。

 良く混ぜて馴染ませ、具材が焦げる寸前に、それを引き上げます。

 そして、煮えたぎった油を擂鉢の粉唐辛子の上に回しかけます」


 板長は鍋を傾けると『ジューッ』という音を立てながら辣油の元を擂鉢に注いだ。


「今はまだ熱いし、粉唐辛子と馴染んでないためそれほど風味豊かではありませんが、数日寝かせると良くなります。ですが、ここはこのできたてを使ってみましょう」


 それぞれの膳には辣油入りと無しのものを比べることができるよう、2つの小皿に同じ胡麻ダレが入れてある、

 義兵衛は、それぞれの膳の上にある胡麻ダレの小皿の一方に小匙で掬い上げた辣油をかけた。


「元のままのタレと、辣油をかけたタレの両方を比べると違いがより判ると思います。召し上がってみてください」


 皆それぞれ膳の卓上焜炉に火を入れ、準備を始めた。

 焜炉の上の小鍋に入れた出汁が煮立つと、薄く切った白身魚の切り身を潜らせ、その身がうっすらと白濁すると、タレに浸けて口へ運ぶ。

 辣油を垂らした胡麻ダレを浸けたしゃぶしゃぶを口に運ぶと、声が出ないほど驚いている。

 そんななか、坂本の女将が半泣き顔になりながら声を出した。


「義兵衛様、ありがとうございます。これで、坂本は恥をかかずに済みそうです……」


 そのまま袖で顔を覆いオイオイと泣き出した。

 両方のタレを何回も試してから版元さんがボソッとつぶやいた。


「正直、舌に自信はないのだが、この2つのタレの違い、どちらが良いかはワシでもはっきり判る。たった小匙でちょんと垂らした赤い油でここまで味が変わるとは思わなかった。この秘密はなんだ。何なんだ」


 横を見ると善四郎さんはあんぐりと口を開けている。


「これは、何と言うことだ。胡麻ダレというのは、こんなに豊かな味だったのか。いや、辣油が引き出したのか。

 こんなものを足すだけで……。

 気づかなかった」


 善四郎さんの言葉で辣油が上手く作れたことを確信した義兵衛は説明を始めた。


令和に年号が替わって最初の投稿となります。引き続き、よろしくお願いします。

(勝手にランキングのポチッをよろしくお願いします)

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