深川・辰二郎さんと同行 <C2274>
深川へ行く道の途中で、安兵衛さんが尋ねてきた。
「義兵衛さんは、随分と大金を持っていても、ちっとも外観が変わりませんね。自分であれば、落とすのではないか、懐から掏られるのではないか、誰かとぶつかって喧嘩になったらどうしようか、などとつい固くなってしまうでしょう。
こういったことに慣れているのでしょうか。2人で同じ場所に行くのなら、私なら、半分に分けて持つという事位しか思い浮かびません」
「ああ、それは持っていることを忘れてしまうほど、しっかり持っているから落とす心配はしてないのですよ。
あと今の場合だと、二つに分けてそれぞれが持つというのは間違いです。問題が起きる可能性が倍になるだけです。片方だけがお金を持って目的地に辿りつけても、用には足りないですからね。
それで、もし私に何か問題が起きたら、安兵衛さんがなんとか片付けてくれるでしょう。そして、逆に安兵衛さんに問題が起きた時、私はその場から一目散に逃げるだけで済みます」
ちょっと考え込んで言わんとすることを理解したようだ。
「なるほど、二人で分けて持っていても、片方の人が問題を起して半分無くなってしまったら、目的地に着いたところで中途半端な現金しかないので何の役にも立ちませんね。それよりは、有・無というはっきりした状態のほうがマシ、という訳ですか。
これは面白い考えですね。ただ、持つ物にもよるのではないでしょうか」
確かに物によるということはあるのだが、安兵衛さんは冗長という物の考えを間違えている。
万一の時に冗長部分が完全に代替できて成り立つ話で、冗長でないものを分割してもリスクは増えるだけなのだ。
そこを改めて指摘し解説すると、黙り込んでしまった。
「義兵衛さん。やっと言っている意味が判りましたが、なんでそんなことがパッと説明できてしまうのですか。まさか、義兵衛さんが通われた寺子屋でそんなことを教えている訳でもないでしょう。もし、そんな学問を教えてくれるところがあるなら、ちょっと意識の高い人は皆そこへ習いに行きますよ」
そんな話をしながら歩く内に、深川・辰二郎さんの工房へ到着した。
「おや、義兵衛さん。明日、萬屋に送り出す1000個の七輪はすっかり準備できておりますぞ。
さて、先日は忙しい最中に運び入れて申し訳ありませんでした。ただ、あの折に椿井の御殿様から直接お声掛け頂き、皆意気を上げましたぞ。旗本の御殿様から我らのような職人に『よろしく頼む』なんてお言葉を頂けるなんて、聞くのは初めてのことですよ。やっている仕事の価値を認めて頂けることが、これほど嬉しいことなのか、と改めて噛み締めましたぞ。
しかも、自分だけがそう感じているのかと思っていたら、大八車を引いていた職人皆も同じ思いだったようで、工房に戻ってから皆は自慢話ですよ。給金を渡す時以上の盛り上がりで、仕事への意欲が沸くことこの上ないです。おまけに、車引きを嫌がった者が悔しがるのを、笑いものにしておりましたので、今度からは皆こぞって車引きしようとするでしょう」
御殿様から一声かけて頂いたことの効果は、素晴らしいものになっているようだ。
もしこれが意識的なものだとすれば、椿井家の御殿様は大した戦略家であると同時に、必要に応じて何でもできる柔軟性・良くも悪くも余計なプライドを持たない先進的な人ということになるのだろうか。
『御殿様は実は思っている以上に大人物なのかも知れない』と思えば、これを瞬く間に見破ったのかも知れない松平越中守(松平定信)様の慧眼に恐れ入ったのだった。
辰二郎さんは、感激したことを朴訥な職人言葉で語りながら、工房の帳場へ案内してくれた。
「それで、今回は、明日萬屋さんの蔵へ搬入する1000個分の代金50両と、6月に作る1万個分の土の代金200両をお持ちしました。
御改めください。それで、今日はこの後、秋葉神社様へこの1000個分の寄進代金10両を納めに行きますが、ご一緒しますか」
帳場へ50両と包みと200両の包みを置くと、辰二郎さんは経理を担当しているであろう番頭にお金を渡し、金額を確認するよう言い付けた。
「おうよ。丁度秋葉さんから注文されていた卓上焜炉400個が仕上がっているので、都合いいや。一緒に秋葉さんの所へ行きやしょう。
しかし、3日毎に10両寄進するなんて、あまりにも生真面目すぎやしませんかね。神主は寄進の都度、この印型にチョイチョイとお祓いするだけでしょうに、それで毎度10両取るというのは、物を造って売っている立場からすると面白からぬ感じがしますよ。ちょいと脅してこれを半額にさせてやりましょうよ」
確かに、辰二郎さんの工房では職人が汗だくになって土を捏ね焼いて磨いてやっと1個200文+土代100文の売り上げなのだ。それを神社では、そこへ押す判子を前に祝詞とお祓いをするだけで功徳があると称して1個40文を貰えるようになっている。
お祓いだけで40文上乗せしているということを知ってしまうと、寄進は御心のままに、とか言っている神主を有難くなる気持ちが多少減る、というのも頷けなくはない。
「これは応援頂きありがとうございます。資金繰りが難しい中、寄進だけは買掛という訳にはいかないので、実は困っていたのですよ。神様から前借はできませんからね。6月はともかく、7月の1万個分で100両の現金寄進は本当に堪えます。よろしくお願いします」
そうはいっても寄進額の交渉をして1個40文と決め、最初の寄進をしたのは5月24日であり、それからだと、今回の追加の寄進としては中10日空いている。
たった10日で契約を見直して欲しいというのは虫が良すぎる話かも知れないが、大増産でのインパクトに考えが及んでいなかったのだ。
交渉し直しは、出たところ勝負で行くしかないのだろうが、せめて口火は辰二郎さんから切ってもらいたい、と思った。
「それから、土の代金200両については、後から馴染みの瀬戸物問屋へ持っていくが、そこの主人と番頭を紹介しておいてやろうか」
ここは少し悩み所ではあったが、今後の展開を思うと伝や味方は多いに越したことはない。
何かの折に、費用を圧縮することが出来る可能性があるのだ。
「そうですね、明日にでも時間を取りますので、是非お願いします」
辰二郎さんは、大八車1台に400個の卓上焜炉を積み込むと車引きを呼び、約一里(約4km程度)離れた向島秋葉神社へ運ぶよう指示した。
焜炉は重ねて箱に入れ藁の緩衝材をかませてあるが、一応商品は割れ物であるのでそれなりにゆっくりと向かう。
それでも一刻程で一行は秋葉神社の社務所に着いたのだった。
社務所で辰二郎さんが声を掛けると、別当・満願寺から派遣されている経理担当の原井喜六郎さんが出てきて中へ案内してくれた。
「今日は注文されていた卓上焜炉を400個持ってきましたよ。今回、1個120文で卸す約束でしたんで全部で12両(120万円相当)になります。職人達に渡す給金になるんで、銀で700匁(=2650g)ですか。支払いをよろしくお願いします」
「おや、直ぐに支払いでございますか。これは困りましたねぇ。12両分の銀はちょっと多い金額なので、今直ぐというのは難しいです。話にもよりますな。
ところで、確かそちらは椿井家中の義兵衛さん、でしたか。どういった御用でございましょう」
寺社の経理をしているだけあって、金銭にはしっかりしているところが良く判る客あしらいである。
いつの時代でも、これぐらいできないと経理の担当は務まらないのか、と思ってしまった。