萬屋で丁稚になる相談 <C2272>
松平越中守様の御屋敷を出て、辰二郎の工房にも寄りたいが、経緯からしてとりあえずは萬屋さんの店に立ち寄るしかない。
安兵衛さんに引きずられるように楓川を渡ると、具足町の萬屋さんの店に立ち寄った。
昼下がりではあるが、番頭の忠吉さん始め千次郎さんやお婆様がいつもの茶の間で待っていた。
そこで、まず今朝ほどの練炭を借りた経緯から説明した。
「松平越中守様のお屋敷で、御殿様直々にお目にかかる機会があったのでございますか。それで、随分とお疲れのご様子なのでしたか。
松平越中守様、今は奥州白河藩11万石の御殿様でございますが、将軍家御3卿の田安家一門でございます。よく直接お話できましたなぁ。御忍び姿とは言え、老中・田沼様がお越しになり直接お話をなされたりと、ここにきて随分と御公儀とのつながりが出来て参りましたなぁ。まあ、義兵衛さんの途轍もない企画・提案の凄さを知る我が身としては、当然という気が致しますがな」
今朝、神対応してくれた忠吉さんが真っ先に感想を伝えてきた。
「それで、実はお願いがございます。椿井家が北町奉行・曲淵様と越中守様の間で内密に連絡をとる御用を言いつかっております。そのため、この萬屋の丁稚に化け、越中守様のお屋敷に毎日御用聞きに伺う体を装います。このため、私がこの萬屋に通い詰める格好になりますこと、丁稚の装束を貸して頂きたいこと、このことについては店内関係者一同を含め他に漏らさぬようにして頂きたいのです。
あと、私が出入りできない時には、どなたか歳恰好が近い丁稚の方に御用聞き訪問を代わって実施して頂ければ助かります」
やっと本調子に戻りかけた義兵衛の依頼に千次郎さんが答えた。
「それはお安い御用です。これを機会に、越中守様から薪炭の御用を頂けると誠に嬉しいですな。
そろそろ、料理比べの興業にも力を貸して欲しいのですが、どうでしょう」
「興業は、この越中守様のことがもう少し片付くまで、お任せしたいと思っています。
それで、越中守様のお屋敷へ、深川製の七輪を2個渡して実演しましたので、何かの折には練炭の追加発注もあるかと思います。大きなお屋敷ですから、七輪の便利さが判れば追加で10個くらいの七輪は入れるでしょう。すると、今の時期では想像すらできませんが、暖が欲しい時期になると一晩で七輪の個数の練炭を使います。黙っていても毎月300個・15両のお買い上げになります。20個入れれば倍の30両」
景気のいい話は、どこでしても気持ちがいい。
義兵衛の明るい言い様に、萬屋一同だけでなく安兵衛さんも一緒に皆声を上げて笑った。
「ほほほ、これは嬉しい話でございます。わたくしは、なにより毎日この萬屋に義兵衛様が通ってくださるのが何より、と感じますぞ。萬屋・丁稚姿の義兵衛様とは、きっとお似合いでございましょう。いっそ、丁稚とは言わず番頭姿になるというのはどうでしょう」
お婆様は上機嫌でいつもの暴走を始めそうになったので、直ぐ止めに入る。
「いえいえ、こんな若造で番頭では目立ち過ぎます。丁稚だからこそできる御用聞きでございます。商品を卸すときは、手代をつけてもらいくっついていきますよ。もっとも、私は手代の荷物持ちですがね。
それはそうと、焜炉・小炭団の売れ行きはどうなっておりますか」
大番頭の忠吉さんが答える。
「小炭団は類似品が出て売れ行きが鈍ると推定しておりましたが、これが一向に下がらず相変わらずの売れ行きです。小売値を下げた訳でもないのにこの売れ行きですから、類似品が出た時に主人が値下げを諫めましたが、あせって下げるということをしなくて本当に良かったです。
焜炉もおおよそ1万個出ておりますが、引き合いは続いていて、萬屋製・深川製ともに追加でもう2500個の追加依頼を済ませています。義兵衛様の交渉の結果、秋葉神社様への寄進料が下がったのは実に嬉しいですね。
それで、実は金程村製もひそかに人気があるのですが、もう追加での入手ができないと判ってから、店頭には出していません。幾らでも良いからと言う客に限って現金渡しで1個単位で売っています。
それから、小炭団については、あと10万個位は蓄えておきたいですが、里の工房はゆとりがありますかね」
追加生産はかなり苦しいが、工房の備蓄や登戸村の支店で持っている分を持ってくればどうにかなりそうだ。助太郎には追加生産が必要だろうから、泣いてもらうことになるかも知れない。だが、ここは踏ん張ってもらうしかない。
それで、安価な類似品が出回らないのはなぜだろう。
忠吉さんに聞いてみた。
「やはり自分もそこが不思議と思い、料亭の女将に聞いてみたのですよ。
『類似品の問題は火力と燃焼時間が均一ではない』ということに尽きるそうです。仕出し膳をある程度まとめて宴席に出して火をつけるのですが、類似品は大きさが同じでも、火力がバラバラだったり燃え終わる時間がちがったりして、宴席では具合が悪いそうです。
一斉に点火すると、やはり同じ程度に燃えてくれないと、見てくれが悪く、客から文句が来ることもあるそうです。
そうすると『金程』印の萬屋の小炭団でないと、板さんが『こわくて宴会料理に出せない』と言うし、客も用意された小炭団の金程の刻印を見て『これなら大丈夫』と思うのだそうです」
粉炭を捏ねる毎に、そこからサンプルを抜き出しして燃焼時間を測定し、同じ品位を保つという地道な作業がここでやっと生きてきたのだ。
焜炉も小炭団も正しく『金程』のブランドが確立し始めていることを意識した。
練炭にも同じ『金程』の文字が刻印されているので、これは幸先が良い。
「良く判りました。今、里の工房では練炭作りに全力という状況で、焜炉も小炭団も今は作るゆとりがない状況です。しかし、こうなってくると、並行して作っていくしかないようですね。里の助太郎には迷惑でしょうが、どうやらそう言っていられない感じです」
「忠吉が言う様に、『金程』印の小炭団も卓上焜炉もどんどん卸して頂きたい」
千次郎さんは頭を下げて来た。
「はい、その方向で善処します。
ところで、6月7日に七輪1000個が深川からこちらに届きますので、その受け取り準備をお願いします。明日は、こちらにお邪魔した後、深川へ代金を渡しに行きますので、また2階の金庫から椿井家分のお金を持ち出します。出すのは全部で260両(=2600万円)の予定ですので、ご了解ください」
「判りましたが、そうすると金庫の中にある椿井家の現金残はあと40両(=400万円)ほどですな。新規に小炭団10万個が入れば、150両の売掛ができますので、一部を現金で納めてもよいですよ。
それはそうと、260両とは大金ですね。七輪の製造費用としては高すぎませんか」
「ええ、内200両は七輪に使う特種な土の代金先渡しです。奥能登で取れる『地の粉』を使いますが、6月中に生産する七輪に使う分を先に確保したので、この支払いに充てます。実際の製造費用は50両で、あとの10両が秋葉神社様への寄進分です」
一応納得はしてくれたようだが、実際は秋口までに現金であと400両ほど必要なのだ。
『今直ぐではないので、もう少し見通しが立ってからの話としよう』
義兵衛の思いに呼応するように、お婆様がちょっと不審な表情を浮かべているが、深追いしている間はない。
丁寧に御礼を述べ萬屋を後にした。
屋敷に戻ると、安兵衛さんと並んでお殿様へ越中守様のお屋敷で話したことの次第を報告した。
「お前の目からワシがそのように見えておったのか。言ってしまったものはどうしょうも無いが、厄介じゃのう。
家の財務を建て直しできたばかりで、これから里のことをと思っておった矢先に、難儀なことじゃ。
御公儀の偉いさんの下で這い蹲るのは、正直ワシの性に合わんが、そうも言っておれんか。馬を頂いたお礼もあるしのぉ。
6月10日は、昨日同様お忍びという格好で行くのが良いか、だけは折を見て確認しておけ。
それにしても、ワシが目をつけていた馬より、よほどの上物を頂いた。おまけに、あと2疋についても、市中のものより安価で斡旋してくれるそうじゃ。馬役もそれなりに頑張ったようじゃから、褒めておいたわ。
家や里の全体から見ると、だんだん良い調子になって来ておる。お前の思惑通りではないのかな。
小荷駄隊の編成やら、順路、荷の積み下ろし場所や内容については、馬役と紳一郎によく相談して決めるのじゃぞ。
もう一人で動ける範囲ではあるまい。独断で進めるのではなく、人を使うことを覚えよ。よいな」
怒鳴られることもなく、ぼやきながらも飄々と義兵衛を諭す御殿様を見て安兵衛は後でこっそり漏らした。
「義兵衛殿の所の御殿様が、何のお役にも就かれていないのがとても不思議だ。これは、我が殿に報告せねば……」