萬屋で状況の会話 <C2263>
曲淵様の御家来・浜野安兵衛様が同席しているせいか、中々次の話を切り出せない。
しかし、お婆様が口火を切った。
「あれからの進展をお聞かせしましょうぞ。
まずは、町寄り合いで『江戸市中の米価を安定させるための取り組み』について問題提起する格好で話始めることを町年寄り・樽屋藤左衛門さんに説明し、了解を得ております。寄り合いは毎月10日に行われるので、そこの話具合ということになりましょう。あと準備に6日もありますぞ。
それから、萬屋の後ろ盾になって頂く奈良屋・重太郎さんのことじゃ。こちらは、千次郎が足繁く通っておろう。そこの話が進まんと、練炭の委託生産先の件を進められんじゃろう。
いつまでも仕出し膳の座とかかわっておっては本業が進まんぞ」
お婆様にしてみれば、料理比べや八百膳さんとの付き合いは一定の所まででよく、どうやら度を過ぎたのめり込み具合と推測される。
確かに、広く顔つなぎするにはこういったイベントを仕切る立場というのは誠に都合いいのだが、これにかかりっきりになったところで飯が食える訳ではない。
ただ、この顔を使って七輪と練炭が売れるのだから、多少度を過ぎるつきあいも必要と千次郎さんは考えたに違いない。
果たして千次郎さんは口答えした。
「いや、八百膳さんを通じての付き合いは秋口の商売に必須と思い欠かさぬようにしております。
また、重太郎さんとの話も徐々(じょじょ)にではありますが、進めておりますよ。ただ、こちらのほうは、なかなか懐に入れず困っているのです。そもそも七輪・練炭がどのようなものか、から説明せねばならぬのですが、今は夏場でございましょう。今の時期、ヒヤこいものであれば見せようもありますが如何せん暖を取る道具です。判ってもらうのに苦慮しているのです。
それに比べると、仕出し膳の座の話は、皆に注目されながら仕切るのが面白いことこの上ありません。判りますでしょう。『こうすればどうか』という話がたちまち受け入れられ、決まっていくのです。それぞれの料亭からの苦情や意見も、座をまとめる八百膳との相談で決まっていくのです。
そして、もうすぐ臨時の座の会が開かれます。新しい料理比べの開催に向けて、知恵を出し合っているのですよ。ここで抜ける訳には参りません。それから、義兵衛さんには座の事務方の寄り合いには、以前のように是非ともご参加ください。皆も待っております」
千次郎さんが仕出し膳の座の集まりに夢中になるのも無理はないが、これでは話が進んでいかない。
そこで、義兵衛は意見した。
「千次郎さん、私も膳の座の様子が気にはなっております。しかし、なかなかまとまった時間が取れないのです。
今取り掛かっている段取りが一息つけば、また以前のようにこちらへ頻繁に顔を出すことが出来るようになると思いますので、もうしばらくお待ちください。
あと、奈良屋・重太郎さんに、こちらに渡した七輪と練炭を見せてはいかがでしょうか。場合によっては私が同席したほうが良いかも知れません。それから、重太郎さんが仕入れている木炭の産地は主にどういった場所になっているかが気になります。もし、その場所が椿井家と関係が深い方の御領地ということであれば、私が入って話を進めることが出来るのではないか、と考えます。
実は御殿様より『練炭の委託生産をするのであれば、当家の縁者であるほうが良い』とのお言葉を頂いております。場合によっては、その薪炭問屋が、椿井家と萬屋さんのような関係であるかも知れません。そうすると、話はより円滑に進むでしょう。
先日、色々と調べて頂きたいことを述べましたが、そこがどなたの知行地か、近くの産地の領主がどなたか、ということも追加しておいてください」
お婆様が聞きとがめた。
「ううん、話の中にあった、今取り掛かっている段取りとは、どのようなことでございましょう」
さりげなく聞き逃してくれると思っていたが、抜け目のないお婆様にビクッとした。
段取りというのは、甲三郎様の仕官の件なのだ。
富美が江戸に送られる事態になった時に、甲三郎様を曲淵様に売り込むということを想定していたのだ。
その先が、今の権力者である田沼様に替わったことは想定外だったが、このあと起こるであろうことは概ね変わらないだろう。
それは、富美の中にいる阿部の暴走で、きっと甲三郎様は窮地に立ち、何らかの連絡をしてくるはずで、その騒動が終われば一息つけると睨んでいるのだ。
なので、そのままをここで説明する訳にはいかないので、別件で誤魔化すことにした。
「今、椿井家では新たに何疋か馬を買い入れて、江戸の屋敷と里の間で毎日定期的に輸送する便を作ることを考えています。主要なものは館のある細江村から鶴川街道へ出て登戸村との間を結ぶ経路です。登戸から江戸の屋敷までは、独自の経路以外にも用途に応じて他の輸送手段が使えますので、せいぜい1疋程度の荷駄の往復になります。登戸村は重要な拠点として何棟か蔵・倉庫を借りる算段をしております。実は、登戸村の支店の中田さんに4棟ある蔵のうち1棟を借りる話をしています。
そういった蔵・倉庫に練炭や七輪、米といった物資を一時置きすることを考えております。
この流れがきちんと出来上がらないと、練炭の搬出が滞ることになります」
仮のこととして、小荷駄隊の設営とそれによる運搬を持ち出したのだが、話をする内に『これは本当に大変なことだ』と気づいて焦り始めた。
小荷駄隊について構想は話しているが、登戸を拠点にどう動かしたいのかまでは紳一郎様にも説明していなかったのだ。
さて『別な段取り』の中身を聞いてきたお婆様は義兵衛の説明に納得したようだったが、千次郎さんは別の所に反応した。
「おやっ、番頭の中田から『蔵1棟を義兵衛さんへ貸し出す』と聞いておりませんぞ。その話はいつ頃しておりますか」
萬屋内のこととは言え、余計なことを言ってしまったかもしれない。
「先月26日に里へ戻るときのことです。この春先でしたように、支店でも七輪や練炭を売りたいという要望があり、江戸から七輪を送り込む約束をしました。工房の練炭や江戸の七輪を行き来させるために、椿井家として一時保管する場所が必要という話をしましたら、委託販売同様の扱いができるという点を考慮して頂き、七輪の輸送費用との相殺で蔵を手当てして頂く話となりました。とりあえず近々江戸から七輪100個を送り込むことになっております」
「そうか、中田はそれで小遣い稼ぎをするため、思い切って蔵の1棟貸しをしたのだな。まあ、冬場に各村で作る木炭を集めるための蔵なので、義兵衛さんに融通を利かせても差し支えないと判断したのだろう。
最繁時に溢れる木炭をどう捌くかだけのことであろう。それに、今年の冬は木炭は集めることはできぬ、と踏んだのであろう。どうせ、義兵衛さんの村の工房で、あの周囲の木炭を根こそぎかき集めて練炭をつくるのだろう。ならば、今までの恩を返すつもりで蔵を貸したのかも知れんな」
やはりここまで積み上げてきたものが効いているのか、千次郎さんの柔らかい言い方に安堵しながらふっと横を見ると、お婆様が不気味にニヤけていた。
『萬屋の繁栄振りからすると、借りが少しでも返せたことにほっとしているのかも知れない。しかし、あのお婆様のニヤけ方は一般的に悪企みが上手く行っている時の表情だ。一体何を思っているのか気にはなる』
「それで、義兵衛様、練炭の委託生産先の調べについては、わたくしも千次郎の背中を一生懸命押しましょうほどに、もう少しお待ちくだされ」
こればかりはあせってもしょうがない。
ただ、生産する日数=総生産個数が減るばかりなのが気になる所なのだ。
とは言え先のある話なので、お礼を述べて萬屋を後にし、深川の辰二郎さんの工房へ向った。




