田沼様の詮議終了 <C2260>
甲三郎様の『一般に使うものに銭をとって奉行所の印を付ける』という案を聞いて田沼様は黙り込んでいる。
ここで曲淵様が口を挟んだ。
「これは、卓上焜炉に神社の刻印が押されているのと同様ということに聞こえる。更に、仕出し膳に使う卓上焜炉の許認可制という話とも通じるものがあると思うがどうか」
「ご推察の通りにございます。卓上焜炉の許認可は型を認める格好ですが、それを更に一歩進め、個々に認めた印を付けさせるものです。こうすることで、認可品か否かが一目でわかります。御公儀がお認めになった品ということであれば、市中のものは多少高くてもそちらを選ぶことと考えております」
この甲三郎様の説明に戸塚様が喰い込んだ。
「神社の刻印は義兵衛の発案と聞いております。これも義兵衛の案の様に思えるのだが、どうでしょうか」
ここは甲三郎様を売り込むしかない。
そう覚悟を決めて義兵衛が説明をした。
「恐れながら申し上げます。焜炉の刻印は、元々は里で工房を管理している朋友の宮田助太郎が『火伏せのお札を貼りたい』と申したことが切掛けでございます。私はその言葉に乗り、神社に掛け合った結果として、あのような形に収まりました。
甲三郎様にはこのような形に至った経緯を説明してはおります。ただ、神社を御公儀になぞらえ対象品目を広げるというのは、最近色々と話をしている内に固まったもので、どちらの考えとも申せません。強いて申さば、甲三郎様と私との共同の案となりましょう。
しかし、御奉行様・ご老中様という形で印に格を設けることなどは、この場で初めて耳にする内容で、甲三郎様が考え出されたことに間違いございません」
ここでおもむろに田沼様が口を開いた。
「これは誠に興味深いことよ。椿井家の里にはまだまだ人材が埋もれて居る、ということじゃな。
曲淵の申しておった、皆寺子屋制度の賜物ということなのかも知れぬな。
さて、物に奉行の印を付けるという甲三郎の案、中々面白いではないか。格安で銭を集める仕組みとしては秀逸じゃ。
甲三郎、お前にはどうも商人のような嗅覚があるように見える。こういったことに聡い者が家に少ないのは残念なことよ。
それから、富美のことじゃが、このような席で言い難いことを、ここまではっきり物を言う女子は初めてじゃ。
椿井家が40両で高石神社から落籍せたということであれば、田沼家で譲り受けることはできんか。奉公人として椿井家で抱え込むこともあるまい。そうさな、100両ではどうじゃ。富美を手元に置いて、いろいろと聞いてみたいこともある」
『あれ、神託についての詮議はどうなってしまったのだろうか』
田沼様の発言に義兵衛・竹森氏が首を捻っている間に甲三郎様が話を進めていく。
「富美を田沼様の手元に置かれることについては、何の問題もございません。その件については、我が殿に伝えおきます。
富美、承知であろうな」
甲三郎が富美に意思確認するが、ご老中からの所望であれば否という答えはない。
どこか興奮した声で富美が答えた。
「はい、承知致しました。もとより身一つで椿井家に奉公しておりますので、お指図に否はございません」
「では、今宵からこちらで富美を預かろう。仔細は別途曲淵より伝える」
田沼様はこう告げると平伏する3人と戸塚様を残し、曲淵様に案内されて座敷を後にした。
「甲三郎様と義兵衛さんはここで暫くお待ちください。
では、富美、私についてきなさい」
座敷で二人きりになると、義兵衛は甲三郎様に尋ねた。
「田沼様は一番気にしているはずの神託の当たり外れの具合を聞きませんでしたが、それでよかったのでしょうか。詮議はこれで終わりなのでしょうか」
「田沼様は、どのような者が神託を語っているのかを見に来ただけに違いない。曲淵様が披露した神託に関わるものに、嘘偽りがないかどうかを見極めようとされたのであろう。それで、富美が本物に違いないと思われたので、椿井家より引き取ることにした、と考えれば良い。
神託の内容は既に御奉行様から仔細に報告されておろう。同じことを重ねて聞くのも何であろうから、言上の様子や矛盾がないことだけを見ておったようだ。
西の丸にある田沼家に連れていかれた富美がどのような扱いとなるかは、まあ富美次第であろう。
椿井家のような小さな所帯であれば、ただの奉公人としても皆顔見知りじゃし、特別扱いは容易であったが、田沼家は人が多いゆえ特別扱いは難しかろう。警護の意味からして、寵愛する妾を装うのが一番楽な扱いになろうの。さすれば、夜な夜な話を聞くことに何の差支えもないし、睦言を聞かれぬようにするという名目で話を聞かれぬように人払いも容易になろう。
どのような話を富美が語るのかは、もう判らぬところが心配ではあるがな」
田沼様の在り様にやっと合点がいった義兵衛だった。
『それにしても、田沼様は歴史教科書に見る悪党という感じではなかったなぁ。いかにも大物然として、飲み込まれるようだった。
元いた時代でも大物と呼ばれる人は、例え悪人と言えども人を魅了することに長けている、と聞いていたが、こういうことを指すのだろうな。
この分だと、田沼意次嫌いの阿部が宗旨替えするのも意外に早いかも知れない。阿部も結構ミーハーだし、富美の問いに真摯に応える様子には、流石の阿部もグラッと来たに違いない』
しばらくすると、安兵衛さんが現れ奥座敷から奉行私邸の裏口まで案内してくれた。
「御殿様からの伝言が御座います。『本日の詮議は終わりであるが、後日使者が参ることになるやも知れぬゆえ、甲三郎様は里へ戻らず江戸の屋敷に数日は留まれるように』とのことでした。では、お気を付けてお帰りください」
呉服橋御門から堀伝いの道を二人で歩きながら屋敷まで戻った。
屋敷に戻ると、御殿様への報告が待っている。
富美が田沼様預かりとなった旨を伝えると、御殿様はすでに御承知であった。
「流れからして、奉行の後ろ盾になっている田沼様が富美を引き取るおつもりで江戸へ寄越させたのは見えておった。しかし、落籍せる代金を支払うというのは、これはまた珍しいこともあるものよ。本来であれば、一介の奉公人であるし、問答無用で持ち去っても良いと思うのだがな。
こうなってくると、後付けではあるが、富美を椿井家の養女という格好に仕立てることも必要かも知れん。下された金子はその費用に充てよという謎掛けに違いない。紳一郎、前例を調べておくようにせよ。また、事前に御奉行様に相談することも忘れるでないぞ。
今回の件で、曲淵様が田沼様といかに近しい関係にあるかが良く判った。当家も御奉行様には用心せねばならぬのぉ。
義兵衛。このことを心するように、な」
的確に指図する御殿様を見ると、幕府の中で何の役職にも登用されていないのが不思議な感じがする。
きっと、外目にはわざと凡庸に見せているに違いない、と思えてきた。
ただ、先の話の中で、何をどう用心すれば良いのかまでの説明がない。
これは自分でよくよく考えてみるしかないようだ。




