深川製七輪の卸し価格 <C2237>
向島・秋葉神社での押印交渉が隠し玉の10文を乗せなくて済み、ホクホクの義兵衛さんは深川の辰二郎さんのところへ戻っていった所から始まります。
今度は七輪の製造価格の交渉です。
「辰二郎さん、義兵衛です。秋葉神社様の御印をつけるための寄進料についての話がまとまりました。
まず、卓上焜炉ですが、教えてもらったように寄進料を10文に下げる話がでまして、萬屋さんへ話を通す必要がありますが、まず問題はないでしょう。交渉の中では、萬屋に卸している焜炉の金額は伏せております。そして、工房から秋葉神社様へ卸す金額もぼやかしているので、こちらで委託生産を受けた場合は1個100~120文くらい貰えるように頑張れるかなと思います。
それで、七輪についての御寄進料は1個40文ということで決着です。押印の1000個分として10両納めて参りましたので、これでやっと1000個の生産をお願いすることができます。
あとここからが主題ですが、1000個作るにあたっての細かい条件を聞きたいのです。特に生産にかかる日数と、こちらへお支払いする費用のことですね」
義兵衛の率直な言いように辰二郎さんもハッキリと返してきた。
「一応、最初の1000個は8日くらいあれば作れると思う。これも卸値如何なのだがな。
それで、最初の1000個は1個320文(=8000円相当)と少し高めになるが、その値段にして良いかな。
こちらからの提案だが、実は材料に使う土で、義兵衛さんが指定した奥能登で採れる「地の粉」が高い。1個当たりに使う土の量だけで100文(=2500円相当)もするのだ。幸い、最初の1000個分はこの値段で仕入れることができたので、320文でできるが、この特殊な土が同じ値段で継続的に手に入るとは思えん。ただ、義兵衛さんが言うように、年末までに10万個作るとなると、話は変わる。その場合はどっさり持ち込むことができるので、その分、土の値段は安く買えるだろう。
なので、こういった素材の値段分を義兵衛さんの所で持つようにしてくれれば、変動の大きい要素を外して、ある意味加工だけで220文という卸値を提示できるのだが、どうかな」
義兵衛は頭の中で暗算する。
1000個で80両(800万円)になるが、その内訳として珪藻土の費用が25両(=250万円)と大きい所を占めているのだ。
しかも珪藻土の代金は変動要素が大きいため、この材料費を義兵衛持ちとすれば、工房は経営を考えるのが楽になる。
なので、材料の高騰は義兵衛が負うリスクにしてしまえ、という考えはよく判る。
「なるほど、それは良い考えですね。それで、その320文の費用の中に七輪の木枠も含まれているのでしょうか」
「おうよ。細かい所を言うから、残りの220文の内訳をしっかり聞いておくれ。
まず木枠だが、これはこちらでも手が足りないので他所で作ってもらう。ここは木場の隣なので、木を加工してもらう職人・工房には事欠かない。見本を見せたら1個60文(1500円相当)と返してきた。ただ、数量のことは言っていないので、例えば6月中に1万個作るという条件を示せば、もう少し安い値で引き受ける所も出てくると思っている。まあ、60文と見積もっておいて、上手くいけば10文下がる程度と思っておいてくれ。こいつは精度を要求されてないので楽な仕事さ。
あとは、土に混ぜる漆喰やつなぎの粘土の費用で、漆喰は40文、それ以外の粘土が20文になる。こっちは値段が安定しているし、材料も豊富だから問題ない。
残りの100文だが、窯の燃料で20文ぐらいかな。このあたりになると、1個あたりの値段で説明してもピンとこないかも知れないな。後の残りが職人の工賃とこの工房の維持費でさぁ。
職人の工賃は、1000個作るのに16両と勘定しておいてもらいたい。七輪を量産し始めたら人数を増やすつもりで考えている。素人でも出来る所は安い工賃で仕上げさせ、細かい精度が必要な所にはしっかりとした者をちゃんと置くので、そこは安心してくれ」
細かい内訳を聞いて、その割り振りで無理はないようだ。
製造にあたって、ちゃんと儲けを考え、利益を出せるようにもなっている。
無理をしないできっちり製品を仕上げるというのは、さすがに物作りの要諦を判っている辰二郎さんだ。
しかし、ここで聞いておく必要があるのが、直行率・歩留まりのことなのだ。
「それで、辰二郎さん。1000個納品するために、職人には何個作れと指示しますか」
辰二郎さんはそれまでの笑顔が一瞬消え、怖い真顔に変わったあと、豪快な笑い声をあげた。
「義兵衛さんはその歳で経営のことや製造のことを本当によくご存じですな。このような質問が来るとは思っても見ませんでしたぞ。
技術的に面白いものを持ちこんでくれるだけでなく、経営の心得までお持ちのようですな。
そう、最初の1000個の製造については150個単位で10組、1500個作る指示をします。うん、最初は500個位は不合格品が出るが、それでもどうにか出来る数と見て多目に仕込みます。
こうなると正直に話しますが、不具合となる500個分の費用は、1000個の中に含まれています。なので、努力して不具合の数を減らすことができると、工房はその分利益が出ます。請求する費用に5割も掛けていると思われるかも知れませんが、この七輪を作るために工房の中をいろいろ変える費用が結構かかっており、それを回収しておるのです。
最終的には150個単位を7組、都合1050個作らせ、不合格品を50個以内に抑えるというのが目標になる。1組内で7~8個以内ですかな。これが達成できないと、工房は掛けた費用を取り戻せません。正直、ここまで手の内を明かすことになるとは思いませなんだ」
義兵衛は事情が推察していた通りであること、辰二郎さんが隠すことなく話してくれたことを確信した。
「それではここに80両用意しましたので、まずはこれをお受け取りください。このお金で1000個の製造をお願いします。納期は10日後の6月4日。納品は椿井家の屋敷とします。ただ、場合によっては萬屋さんの店に変更することもあり得ます。その場合はこちらから連絡します。
それから、別に20両用意致しました。こちらは工房で製造準備を行うための費用です。この後に奥能登の『地の粉』を仕入れる手配もありましょう。その必要経費も入れてです。
今、江戸市中で委託した水準の七輪を作れるのは辰二郎さんの工房しかありません。それを踏まえると、もはや椿井家とは一蓮托生の仲と申せましょう。合理的な理由があれば、そのような工房で必要となる費用を負担することについて、この義兵衛、吝かではございません」
「なんと、これは本当に有難いことです。常ではないこういった配慮を頂けるのであれば、失敗分の上乗せや配置替えの費用を見込むことは無用だったのかも知れませんな。苦労させている職人たちも喜ぶことでしょう。この仕事は、ワシにとって本当に面白くやりがいがあります。更に、そのような手当てを頂けるのであれば、土を除いた1個220文は、次の1000個の清算時に御印分などを考慮して180文位までに見直しをしても良いですぞ。
ところで、9月までに5万個を作り出すとなると、実は結構厳しいということはご承知ですよね。
一応前回の話を聞いて、6月と7月は1万個、閏7月と8月は1万5千個の生産という様に考えています。6月の29日間で1000個の納品を10回するということは、3日に1回の窯出し、いや、毎日450個窯出しをして合格品を300個以上取り出す作業になるのです。閏7月からは2日に1回の納品を月15回。
工房としては、それなりの苦労はしましょうが、言われた通り物を作り出すだけでよいとは思います。しかし、受け取る椿井家のことが、つい心配になります。義兵衛さんのことですから、既に手を打ったり策を講じたりされておると思いますが、無理・無茶だけはなされないようにお願いしますよ。この七輪のことで、お困りのことがあれば、この辰二郎をあてにしてくだされ。
ああ、1個320文は本当に取敢えずの卸値で宜しゅうございます。実情にあわせて都度ということでよろしゅうございます」
技術屋バリバリの職人気質で、おそらく苦手であろう経理面での苦悩から少しは遠ざかることができたのか、こういった温かい言葉にホロッとした。
そして、これで寄進分も含めて1個360文(=9千円相当)程度で調達出来る目途が立ったことに大いに安堵した義兵衛は、工房の試作品木枠付き4個を携えて萬屋へ向った。
珪藻土の江戸での値段を調べたのですが結局判りませんでした。なので、思い切って1個に使う金額で80文~100文(2千円~2千5百円)位ということで設定してしまいました。大量に使うことになると、船で運んでくるのだと思っています。その運賃はどうなるか・需給関係はどうなるかなど、値段の上下が激しかろうということで、この材料費を椿井家で持たせることで工房のリスク回避をする申し出をしています。
深川の工房での交渉を終え、萬屋へ向った義兵衛、が次話です。




