屋敷での料理披露とお金の準備 <C2233>
いよいよ次の七輪のステップに入っていきます。
■安永7年(1778年)5月23日(太陽暦6月17日)
御殿様が非番で屋敷に居られる日で、加登屋さんに依頼した料理の披露を行う段取りになっている。
加登屋さんは前日の内に八百膳・善四郎さんに掛け合って、大方の食材は手に入れており、朝から屋敷に運び込んでいる。
調理の手順などはみっちり教わっているようで、義兵衛が心配することはなさそうだ。
今回提供する料理の中には、先日の料理比べを意識したのか、そこで出されたものを模したものも数品あるようだ。
一人分が2膳相当の小皿が並び、2汁7菜と揃えた中に卓上焜炉も2個載せられているが、流石に一皿あたりの量は抑えてある。
座敷に普段使わない大きな膳を5脚も並べ、すっかり準備が整うと紳一郎様が先導して御殿様、若君、奥方様、甲三郎様と入って着座する。
「忙しい中、馳走の準備、ご苦労であった」
御殿様が加登屋さんに声を掛ける。
そして、若君は義兵衛に話掛けてきた。
「此度の働きは誠に嬉しいが、私が無理を言ったことは申し訳なかった」
「若様、勿体無いお言葉、誠にありがとうございます。
それでは、加登屋が膳の簡単な説明をいたします」
「加登屋でございます。このように料理を紹介させて頂くのは、誠に名誉なことで、今回で2回目でございます。
さて、今回の料理は先日幸龍寺で行われた料理比べの中で、試合だけでなく控え室にも出された膳も含め、全部で14種類の膳の内、私がこれはと思った小皿料理を7品、汁ものを2椀と選び出し、それに似せて作ったものでございます。
ただ、瓦版で評判と書かれた両国・草加屋の蒸し料理については、蒸し器が用意できずこれはご容赦ください。
あと、日本橋・坂本のしゃぶしゃぶは、ポン酢ではなく胡麻ダレでお召し上がりください」
加登屋と義兵衛が平伏すると、5名の面々は仕出し大膳の上の料理を賞味し始めた。
美味しい料理に舌鼓を打ち、料理比べのときのことを面白そうに話す上機嫌な御殿様を囲んで賑やかに食事が進む。
団欒のひと時が過ぎ、最後に茶が配られた。
「加登屋、たびたびこのような美味い料理を馳走してもらい、奥や倅を始め皆深く感謝しておる。労に報いるにはどうすれば良いかの。この椿井家に料理人として仕えてはどうじゃ」
上機嫌な御殿様は、一介の料理人相手に過分とも思われる申し出をし始めようとしている。
「恐れながら申し上げます。私はここにいらっしゃるご家臣、細江義兵衛様にかなりのご恩を、返すこともできない程のものを受け取っております。その少しでもこのような形でお返しすることができたのは、この身にとって誠に嬉しいことでございます。実は、この料理比べの興行も義兵衛様から呼んで頂いたのですが、結果として江戸町内の料理人から見ると一段と箔が積みあがってしまう結果となりました。しかし、この加登屋へ寄せられる声は、自分には実力不相応に存じますので、折角のお誘いではございますが、ここはご辞退させて下さりませ。矮小なる身にはやはり登戸の田舎でのんびりと小料理屋を開いておるのが分相応でございます。
ありがたいお申し出ではございますが、誠に申し訳ございません」
「そうか、相判った。そうすると、此度は義兵衛からの貸しが少し減ったことで折り合いをつけるということか。
うむ。義兵衛、大義じゃった」
これで、予定していた料理の披露は終わらせることができたのだった。
後片付けを手伝う義兵衛に、加登屋さんが話掛けてくる。
「この道具や器は全部八百膳さんからの借り物ですわ。食材に至っては、善四郎さんが『無償で持って行け』と言うのですよ。椿井家からの無理難題と判っていたのでしょう。皆こういった形で少しずつ義兵衛さんへの恩返ししているのですよ。
善四郎さんは、口は悪いですが、明るくて立派ですよね。さすがに江戸中の料理人をまとめる器と尊敬する次第です」
こういった雑談の端々に、積み上げてきた義兵衛の信用がものを言っているのが判る。
そして、料理についての費用は固辞して受け取ることもなく、持って帰る料理道具がまとまると、加登屋さんは萬屋へ戻っていった。
さて、これから義兵衛は七輪の試作を依頼した深川・辰二郎さんの所へ行く段取り・事前折衝を紳一郎様とせねばならないのだ。
義兵衛は紳一郎様に、椿井家の金庫からかなりの現金を持ち出すことをお願いした。
そのために紳一郎様へは、七輪1個あたりの製造費用が400文、秋葉神社への奉納が50文を上限として交渉する旨説明し、椿井家からこれを萬屋へ700文で卸す方針を話したのだ。
「1個当たりの椿井家の収入は250文になります。これは、金程村の工房を通していないので、小炭団・焜炉とは異なり、全部が椿井家の収入となります。
まずは最初にまとめて1000個の生産を予定しているため、深川・辰二郎さんの工房へ100両、神社への寄進が12両2分を渡して交渉する必要があるのです。
そして作り上げた1000個がそのまま萬屋へ卸すことができますと、175両の売掛金が萬屋に出来ることになり、その内の62両2分が利益として椿井家に戻ってくることになります」
そう丁寧に説明すると、紳一郎様は腑に落ちないような仕草を見せ聞いてきた。
「112両2分を金庫から出して戻ってくる利益が62両2分では、減っていくようにしか見えんが、これはどういうことなのかな」
紳一郎様の意見は明らかに勘違いしている。
「いえ、これは最初だけです。2回目からは萬屋さんの所にある売掛金から112両2分を使って次の七輪を仕入れます。なので、2回目以降はただ単純に62両2分が積みあがっていくことになります。これを9月までに50回繰り返す予定です。
もっとも、萬屋さんが全数引き受ければという条件ですがね。萬屋さんとて、商売していますので、まだ売っていない七輪の費用を負担し続ける訳にはいきません。ある程度の数量になると卸せなくなりますので、時間をかけて卸し先を見つけて行く必要があります。そのための最初の相談を萬屋さんとはすでに始めています」
「それで、萬屋が9月までに引き受けることができる上限はどの程度と見ておるのか。あまり数が捌けん様なら、新たな卸し先を早く見つけねば、資金が回らんようになるぞ。この屋敷にある現金とて、今度馬を購入する費用に充てるつもりもあり、上手くまわさないとまた借金を重ねることになるぞ」
紳一郎様の懸念はもっともなことで、これを進めるために料理比べ興行の前に、お婆様・千次郎さんを焚きつけているのだ。
「それは判っております。萬屋さんも苦しいところがあるようで、興行に方がついたところで一緒に検討をする段取りとなっております。具体的には、萬屋さんが七輪を薪炭問屋全体へ卸す元締めとなることを勧めていますが、実際には需要がどの程度大きいかを実証せねば問屋は納得しないだろう、ということで後ろ盾をどうするか考えているところなのです」
そうは言ったが、すでに奈良屋・重太郎さんに照準を合わせているのは、行司役をお願いしたことでも明白なのだ。
後は、この重太郎さんを構想の中にどう取り込んでいくかなのだが、その構想がもう一つ定まっていないのだ。
「まあ、そこまで考えているのであれば、どうにかできるじゃろう。話は判った故、金子は用立てよう。
全部で112両2分じゃな。交渉事には多少の余裕も要ろうゆえ、全部で115両で、多少細かい銀も混ぜて用意しよう。先方に渡す時に包む半紙も必要じゃろう。金子は紫の袱紗に包んでおくので、明日朝に持ってゆくがよい」
一番厳しいと思っていた説明が素直に通り、とりあえず払う現金の用意はできたのであった。
明日出かけるための金策を紳一郎様にした義兵衛です。
この現金は義兵衛が萬屋から持ち帰ったものですが、一度屋敷の中に入ると自由にできないのです。
さて、次話はこれを持って出かけるという話です。




