まずは情報収集でしょう <C202>
ここから本編が始まります。
■安永7年(1778年)2月初旬 武蔵国橘樹郡金程村
転移先の年代:1778年は天明の大飢饉の直前。
天候不順や浅間山噴火などで、飢饉は1782年から1788年の7年間という長期間、この天災が続いたと記憶する。
冷夏の影響は東北地方に多く、農村では身売りをする娘や餓死者が大勢出た、という記載があったことを思い出した。
「なるほど。これから起きる天明の大飢饉を、俺が知恵を振り絞り村から餓える者を出さないようにするのが『はらへった防止作戦』なのか。そのために俺が送り込まれたのか」
俺は、誰か考えたのかは判らないが、この時代に送りこまれた目標が『村から餓死者を出さないこと』なんだと意識した。
今日まで、上司の指示で動き、何の目的で書類を作ったり、計算したり、会議に出席したりするのか判らない、歯車の一つである会社員を続けていた。
しかし、今日からは、失敗すれば俺が真っ先に餓え死にすることになるという世界にいて、これを回避させるという目標を持って生きることになる。
この生き方のほうが余程面白そうだ。
「飽食の平成から見ると、食うや食わずやといったギリギリの生活レベルにあるこの時代の村人を、なんとかする。
餓えさせないようにするのが俺の最低限の役目ということなんだな。
何も持って来れていないので、知識だけが武器か。
高校や大学で習った知識は、何の足しにもならなさそうだ。
こういった状況に陥ると、趣味の知識が唯一の支えか」
この時代に送りこまれた目的はなんとなく判った。
しかし、そのための具体的な方法はこれから考えていくしかない。
そのためには今の立場や使えるものは何かをきちんと押さえるしかないだろう。
「俺が村の名主の息子という立場は微妙だなあ。
今の段階で色々な意見を通すのは難しいかな。
飢饉までの準備期間が四年だとすると、この間に即効性のある飢餓対策をどれだけできるのかが勝負だな」
俺は布団の中で段々醒めてくる頭を使ってそこまで考えを巡らせると、起きることにした。
さて起きる段になって、俺の体は俺の意のままに動かないという事実に気づいた。
頭の中で考えるのは自由だが、体や手足・頭の向きだけでなく、声を出すことや目を開けて瞬きすることすら強く意識して命じないと動作し始めないのだ。
そして、俺の意志ではない言葉が口から出てきた。
「お前は誰なんだ」
『君の名は』でもあるまいし、まさかこんな言葉を現実に耳にするとは思わなかった。
「僕の頭の中に、起きろとか手を動かせなんて命令するのは一体誰なんだ。
僕の名前は伊藤義兵衛。
誰かと人違いしてやいないか」
俺がよく見ていたラノベでは、体を完全支配するというものばかりだったが、どうやら現実に起きるとそんなことはないようだ。
憑依された側にとってみれば自分が消滅するのではなく、そのまま頭の中に誰かが住み着いたという感じになるのだろう。
二重人格という事なのかも知れないが、対外インターフェースは元の人格が支配しているので周囲との軋轢は数あるラノベに比べ格段に少ない状況になっているのだ。
ここまで考えたところで、俺は義兵衛に話しかけた。
もっとも、俺が話しても義兵衛に聞こえるだけで、外には声として出ていない。
「俺の名前は竹森貴広という。今から240年後の世界に住んでいた。
どういう理屈かは判らんが、義兵衛さんの中に入りこんだようだ。
俺には目的がある。にわかには信じられないかも知れないが、この先、数年もしない内にこの村も含めて日本全体が飢饉に襲われる。
それを何とかするのが俺の役目なんだ。
どうすればいいのかを一緒に考えて行動してもらいたい」
俺の話しが聞こえたのであろうが、義兵衛はゆっくり首を左右に振った。
「残念ながら、君が何を言っているのか、僕にはさっぱり判らない。
もう起きる時間だし、その内容については朝飯の後、もう一度話しをしよう。
その時までは、体に命令をしないようにしてくれないか。
例えば君が腕を動かせと大声で命令すると、つい腕が変な動作をしてしまう。
朝飯で不審な動きをしてしまうのは御免だよ」
「判った。では、朝飯後に時間が取れるようにしてくれ」
名主の次男とは言え、体の主である義兵衛は16歳の働き盛りだ。
もう一人前の労働力として、村では充分あてにされている。
しかし、俺との約束があることから、一家揃っての朝食時に家長の百太郎へ考えたいことがあるので、今日は書斎を借りたいという話を切り出してくれた。
幸い春前で多少手の空く時期でもあり、この申し出は受入られ、畦修復のための見回りは四歳年上の兄・孝太郎一人で行ってくれることとなった。
朝食が終わると、箱膳を片付け、父の書斎の間へ入った。
「さて、一体どういうことか話してもらおう」
俺の手前には文机があり、その前に座って丁寧にゆっくり墨を摺り始めながら、義兵衛は声を出した。
「いちいち声を出さなくても、聞こえている。
もし周りに人が居たら、危ない人と思われるから、声を出す必要はないよ。
これからはこう言いたいと強く思えばいい」
この後は、無言で話しが進むことになるが、お互いの話が食い違わないように要点を半紙に書きとめることになった。
「今、安永7年だが、あと4年後となる天明2年から天明8年までの7年間に冷夏や浅間山の噴火などが起きて米の不作が続く。
この不作によって大勢の人が餓死する。
俺は、少なくともこの村人が餓えることがないようにする目的でこの時代にやって来たと理解している」
そこまで言った時に義兵衛が口を挟んだ。
いや、強く思念したようだ。
「元号が安永から天明に替るということは、何かあるのか」
「来年の年末、今上様がご崩御される。
その結果、安永から天明に改元されるのだ」
「なるほど、まずはそれなりに大変なことが起きるのだな」
この田舎にあって、後に後桃園天皇と呼ばれる皇室の重大事と元号の関係を理解しているという意味では、義兵衛はなかなかの知識人といえる。
「皇室の代替わりと元号のかかわりはどうして知っているのだい」
「隣村のお武家さんの肝いりで行われている寺子屋で教わった。
僕の村では特段事情がない限り十歳位までは皆この寺子屋に通うように仕向けられるので、村の者は女であっても皆読み書き位はできる。
僕は、その中でも多少勉強ができた方なので、四書五経の素読や算盤なんかも習った。
あと、国学と言われるものも少し齧ったが、こちらは塾頭の趣味といった水準だったので、体系的に学んではいない。
今でも農閑期には寺子屋に通うこともある」
なるほど、これならある程度基礎ができているので説明がしやすそうだ。
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