椿井家の兄弟喧嘩 <C2189>
茶室からの呼び出しが遅くなった訳、そしてそれをひっくり返す話です。
午後は茶室での会談というはずだったが、なかなか呼び出しが来ない。
奉公している女中の中でも富美にかかわりが深い千代さんだけが、あたふたと駆け回っている。
「義兵衛様、富美様。申し訳ございませんが、お殿様と甲三郎様が茶室でずっと相談されているようで、まだお呼び出しがございません。もうしばらくこの座敷でお待ちください、と細江泰兵衛(=爺)様から言い遣っております。私が茶室脇で控えておりますので、ご心配はなさらぬようにお願いいたします」
千代さんは抜かりなく動いてくれているようで、茶室の様子を時々教えに来てくれている。
多分、茶室の中では椿井家の今後の方針について、甲三郎様から説明が行われているのだろう。
さすがに兄弟で意見を戦わせている場を、普通の家来や奉公人には見せたくはないというのは判る。
阿部口調で富美さんがつぶやいた。
「それな、お殿様は田沼憎しで、甲三郎様は商業主義万歳の田沼派。ちっとも話がかみ合ってないじゃない。真正面から切り出せば喧嘩別れしかないでしょう。それでも遣り取りしているのは、小炭団のお金である1600両を椿井家と村でどう分けるか、仮に半分を椿井家で取るとして800両を兄弟でどう使うかで揉めて、もう膠着状態になっているはずよね」
こういった時の女の勘というのはとても鋭いので、多分茶室の中はその通りに違いない。
松平定信様を田安家当主に戻そうと働きかける所は、同床異夢という格好で合意を取れるだろうが、その手法として誰がどこから手を付けるのかの目論見に齟齬があるものと俺は考えていた。
それぞれ考えていた手札を全部晒し、それぞれ折り合いがつく所まで削っていって、譲れないところで張り合っているのだろう。
『阿部の意見が合っていれば、双方が折り合いを付けるための切り札が残っている』
俺は意を決して、千代さんに茶室の中の爺に『金銭のことで伝えていない見込みのものがある』と伝えるよう依頼した。
果たして、千代さんは『義兵衛様だけ茶室においでください』と申し出てきた。
「阿部、お前の推測が当たっていればいいな。期待して待っていろよ」
ピンと張り詰めた茶室に入って平伏すると、甲三郎様が疲れた表情を見せて声をかけてきた。
「義兵衛、なんぞまだ言っていない話があるそうじゃな。殿の御前で申してみよ」
「はい、それは今年の秋口から始める七輪・練炭商売での売り上げ・収益の見込みで御座います」
義兵衛は、江戸市中での秋・冬の練炭需要が最低でも150万個にも及ぶ見込みであることとその根拠、これを工房で一手に生産して卸すことができればそれによる収入がおおよそ5万両になることを、ゆっくりと、はっきりと説明した。
「5万両の内、原材料となる木炭を確保するのに2万両使いますので、椿井家と里の村で使える金額は3万両はあると見込めます。ただ、これだけの収益を見込めるのは、今年の秋・冬だけであり、来年の秋・冬は安価な類似品が出回るためにこれだけの収益を上げるのは困難と考えています」
お殿様、甲三郎様はもとより、普段感情が一切表に出てこない爺までが義兵衛の上げた金額にのけぞって驚いている。
結構長い時間、茶室の中が無音室のようにシーンとなり、皆が氷付いたように身動きできない。
やがて爺がやっとのことでかすれ声を出した。
「なぜそれを早く言わんかったのか。失礼だが、高々500石しかない借金だらけで遣り繰りに苦慮しておるこの家であるがゆえに、そこに投げ込まれた1600両の用途で喧々諤々(けんけんがくがく)の言い合いをここでしておったのじゃ。
そこにもう3万両も入る見込みもあるとお前は申したのじゃぞ。例え今年だけのこととしても、知行地から上がる年貢の120年分にもなる金額じゃぞ。大名並みの収益の金額になるのじゃぞ。まさか、冗談ではあるまいな。
それが本当であるなら、様々なところにある借財を全部返した上で、せねばならぬ施策を一気に片付けることもできよう。
間違いなく出る余った銭を知行地の村々に分配して、飢饉に備えるもよし、新たに殖産興業することもよしではないか。
誠か、誠なのか」
震えるような声で爺が義兵衛に問いかける。
お殿様、甲三郎様はこの金額にまだ固まったままだ。
「この需要見込みはあくまでも控えめな見積もりです。そして、この量を工房で生産できるのかは、助太郎の肩にかかっています。また、目論見通りにするためには、日本橋の萬屋での卓上焜炉の時と同じような騒動が予期されますので、おそらくは準備指示のための指導と、1ヶ月程前よりは私が販売促進のため萬屋へ逗留させて頂くことになりましょう。
こういった色々な前提があり、更に、特に生産を受け持つ工房の助太郎がどの程度大丈夫なのかの見通しがまだ不透明であることから言上に及んでおりませんでした。
しかし『この茶室での話が金額のことで膠着しているのではないか』という富美さんからの指摘があり、もし小炭団で得た金額で不足しているという状態であれば『多少不確実でも十倍以上の収益が年末までに積みあがることをお知らせせねば』と思った次第です」
お殿様の硬直が解けた。
「秋口に卓上焜炉の騒動がより大きくなって日本橋に再現するのか。こちらの収益が5万両ということであれば、萬屋の売り上げは6万5千両にも上るのか。
それだけの大金が動くとなると、まず間違いなく萬屋の後ろに居る椿井家に、奉行から検めが入るな。紳一郎にはよくよく注意しておく必要があるな。
そうか、あの献上してもらった七輪か。なるほどのぉ」
「申し上げます。
練炭はこの工房で作って萬屋に卸します。しかし、練炭の生産量が量だけに、工房で充分な数の七輪を作ることができません。七輪については、私の深川での知り合いに作ってもらうつもりですが、これを萬屋が製造委託するのか、それとも工房が中継するのかは迷っているところです。
ちなみに、秋口の売り出しまでに、需要予測から七輪は10万個を予め作っておく必要があります。七輪1個1000文で販売予定ですので、萬屋の売り上げは七輪だけで2万5千両となります。小炭団の収益金の一部を七輪製造に回して頂ければ、萬屋より七輪製造・販売に関する中間益を確保できます。この中間益を1個20文に設定すると、更に5000両は椿井家で使える格好となります」
義兵衛は、萬屋と深川・辰二郎さんの工房の間に入り、口銭を取ることを考えていた。
そう、深川製卓上焜炉では、1個あたり4文の口銭を辰郎さんに払っているのだ。
甲三郎様もやっと硬直が解けた。
「義兵衛、この件は助太郎と話をしておるのか」
「勿論でございます。それで、150万個を秋口までに作り終えるかどうか、今必死で知恵を絞っておる所と思っています」
大金が入る見込みを説明してしまいました。
次話は、この続きとなります。
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