富美、御殿様へご挨拶 <C2188>
14年前に大飢饉の神託を宣した巫女を確保した、という甲三郎様からの文を手にした江戸の御殿様でした。
■安永7年(1778年)5月7日(太陽暦6月1日) お館
昨日同様、朝餉の後に案内された座敷に3人が揃って待っていると、甲三郎様が入ってきて朝の挨拶を交わす。
「昨日最後に仰られていた、この世界に来ていそうな人物ですが、どうも心当たりがありません。もし今までに来ているなら、何らかの足跡があると思っていますが、そういった痕跡がないのです。もっとも、これから先の時代に俺のように現れる可能性はあります。もしそういった人物が現れたら、そうですね、『新幹線』という言葉を突きつけて、これについて何か、例えば駅名なんか説明させてみてください。それにスラスラと答えられないようなら、その人物はニセモノです。この方法で見分けができます」
義兵衛がそう説明すると、甲三郎様は判ったというように頷いた。
その時、バタバタと駆けつける足音がして、下男が座敷の外から話しかけてきた。
「お話中申し訳ございませんが、今しがた江戸屋敷から急使が参りました。昼過ぎにお殿様が御戻りになられます」
爺が廊下側の障子を開くと、汗だくになった江戸からの急使がヨロヨロとその前に這ってきた。
「申し上げます。昨夕に甲三郎様からの手紙を読んだお殿様は、夜中過ぎにこちらに来られることを決意なされました。お城へは急病で里にてしばし療養との届けを出し、早朝よりこちらに向けて出立されるとのことでございます。到着は昼頃になると思われます」
おそらく、真夜中に御殿様から里へ戻る決意を聞かされ、その前触れのため深夜にもかかわらず急ぎ駆けてきたものだろう。
「うむ、長駆大変御苦労であった。用向きは確かに聞いたゆえ、しばし休むがよい」
甲三郎様は急使をねぎらうと、爺にテキパキと指示を出しお殿様を迎える準備を済ませる。
そして、義兵衛と富美に告げる。
「ことの次第を説明する準備が足りておらんが、ここまでの話をワシからまとめてするしかあるまい。
富美、お殿様へ引き合わせするが、歴史とやらの件は口にするでないぞ。義兵衛は、求められたら言上してもよい。
準備のためワシは席を外すが、田安家当主に定信様が戻り、家基様が将軍となられた場合に、どのような世になるのか二人で検討し、後でワシに報告せよ。そうさな、できれば今夜にでも時間を空けるので、それまでにおおよその所・お前等が知っている歴史との大きな差を説明できるようにしておけ」
爺は、義兵衛と富美をこのお座敷から別の小部屋へ移動させ『ここで話し合うように』とだけ言うと、ドタバタとどこかへ行ってしまった。
思わず二人だけとなってしまい、夜の密会風景となっている。
しかも、爺もおらず聞き耳を立てる人もいない。
「さて~、竹森、これからどう考える」
「そうだな、甲三郎様がいろいろ献策した結果、定信様が田安家当主になるのであれば、それ以外の献策も採れているに違いない。
家基様がご健在なら、家治様と田沼意次様のわだかまりも小さいだろうし、田沼意知様が刃傷に遭う可能性も少なくなると考える。天明の飢饉は襲ってくるが、備えができていれば米価が高騰して民が飢えることもなく江戸市中での打ち壊しも防ぐことができる。田沼意次様が将軍家からの支持を失って失脚することも起きないだろう」
「それはそうと、思い出したのだけど、家治様って脚気で亡くなっているんじゃなかったっけ。そこをなんとかする、ってのも対策が採れる案件だよね。しかも一番簡単で確実じゃん。でも、手を打つことで死期をどんどん後ろへ追いやって、本当に世界は良い方に変わるのかな。どこかで大きく揺り返して元に戻るなんてことになるかも知れないよね」
阿部の指す『良い方』が何かについては多分俺と差異があるだろうが、そこの議論は避ける。
「とりあえず、こうすればよりマシになる、という対策は伝えよう。後は甲三郎様の判断だ」
義兵衛は、細かい対策を書き付けた。
・田安家当主として定信様を充てる。
・来年2月の鷹狩見合わせ(家基様事故死回避)
・天明大飢饉対策
仙台からの米搬入が途絶えるため、大阪から米の回送用意
陸奥国全般で年貢米の札差停止、藩外持出禁止
各地で郷蔵設置と米備蓄の推進
・未発生事象に対する事前報酬(=賄賂)の受け取り禁止(田沼意知様刃傷回避)
・家治様食事改善(病死の時期引き延ばし)
「これだけでも随分と知っている歴史から変わり、貨幣中心重商主義経済の発展がしばらくは続くことになるだろう。そして松平定信の田沼降ろしと米中心緊縮経済の出番はなくなる。後世から賄賂政治と言われる可能性も一応軽減できるし、海外対応も後手に回らず先手を打つことができる」
そう結論をまとめると、阿部=富美さんも概ね納得はしてくれているようだ。
やがて昼食時にさしかかり、お殿様が館に到着した。
奥でお殿様の身支度を整え終わる前に呼び出しがかかり、謁見の間の一番端の畳に富美が座らされ、ご出座を待つ。
お殿様が入ると、甲三郎様をはじめ一同が平伏して迎える。
爺の『一同、顔を上げませい』の声で、少し上半身を持ち上げ、指図されるのを待つ。
「こちらに控えおりますのが、手紙に書きました高石神社で14年前に例祭で飢饉の神託を述べた巫女の富美でございます。確認しましたところ、義兵衛同様に神像に憑依した神の声が聞こえるそうにございます。さあ、挨拶されよ」
どうやら、事前に百太郎も交えて検討した設定を秘して、御殿様にも方便を押し通すようだ。
そうすると、これが方便であることを知る者はたった5人で収まることになる。
「つい先日より神社からこちらへ奉公変えを致しました富美にございます。こちらのお館で誠心誠意勤めますのでよろしくお願い申し上げます」
きちんとした姿勢で挨拶をする富美を、お殿様は満足そうに見つめ、言葉をかけた。
「ここは神社ではないが、新たな神託を授かったならば遅滞なく申し出るのじゃ。よいな」
「依代となったご神体も爺の働きですでに押さえております。丁重に御祭できますよう、簡易ではございますが屋内に社を設けております。また、富美は義兵衛と違い、神託を伝えるだけでなく意図など色々問うことも容易の様です。
高石神社の神主は、この富美が真に神託を聞くことができる者であるということに気づいておらぬようで御座いましたので、意外に簡単に身請けすることができました。多少の費用はかかりましたが、それ以上に報われることになると思います。必ずや、この里に、椿井家に幸運をもたらすことになりましょう」
甲三郎様はお殿様に説明をした。
この場は謁見という恰好でしつらえたので、座談会は昼食後に茶室でということになった。
富美さんは千代さんに連れられ台所脇の女中部屋へ向かい、儀兵衛は爺に連れられ渡り廊下を通って細江家へ向かった。
「お殿様へは方便を通すべしというのが甲三郎様のご意見じゃが、すこぉし危ういものを感じるのぉ。策士、策に溺れるということが無ければよいのだが」
爺がぼやいているように、このままでは確かに、竹森・阿部に関する全ての責任を甲三郎様が担うことになるのだ。
甲三郎様がなさろうとすることを出来る限り支援しないと、義兵衛・富美の命にかかわる危ないことになっていると気づかされた。
またそれと同時に、阿部が俺に真っ先に『甲三郎様がどうしようと考えているのか』を問うたのは、理にかなっていたことを改めて思い知らされたのだった。
甲三郎様の策になにやら危ないものを感じている爺です。