田沼政治への関与方針の相談 <C2186>
いよいよ甲三郎様が取り組む決意を固め、具体的にどう切り込むのかを考え始めました。
■安永7年(1778年)5月6日(太陽暦5月31日) お館
前日のように、富美さん・義兵衛・爺の3名が座敷に入り、昨夕仕上げた家系図を机の上に広げて点検していると、甲三郎様が部屋に入ってきた。
その場で平伏する3人に『時間が惜しいので楽にせよ』と言い、早速机の上の家系図を覗き込む。
「なるほど、この朱線の所までが現状で、朱線以降がこれからこうなるという図式なのじゃな。
ほほう、まず将軍家が治済様の子を養子にして、田安家にも治済様の子が入り、その後一橋家の血筋になった将軍家から清水家に子を入れてしまうのか。結局、将軍家・御三卿をこさえても、血筋は将軍の吉宗様から嫡男ではない宗尹様・治済様という流れでつないでいくのか。これはよう判る系図じゃ。
それで、ワシの意見じゃが、将軍家が一橋家の血筋になろうと何も問題はないと思っておる。要は家康様の血がちゃんとつながってさえおればよい、と思うておる。
ただ、今の田沼様が行っておる政治の方向性が変わっては困るのだ。
なので、昨日言っておったが、田沼意次様が失脚し将軍様が代替わりされて『寛政の改革』とやらで、今の政治の方向が正反対に振れるということを止めるには、一体どうしたらよいものか。
どうせここだけの話じゃ。どこにも漏れることはない故、思う存分話すが良い」
「賄賂まみれの政治体制は、どうせどこかで破綻するのよ。ならば早いうちに方向転換すればいいのよ」
富美の口を乗っ取った阿部が、真っ先に声を上げた。
ここ数日のうちに何度も乗っ取りをしたせいか、口はスムーズに支配できるようになったのかも知れない。
阿部の恐ろしい考えに、思わず身が震える。
「うむ、極端ではあるがそれも一つの方向ではあろう。だが、具体性がないぞ。早く破綻しても正反対の賄賂まみれでない政体に振れるという保証はどこにもない。とんでもない者が幕府を牛耳るかもしれん。それにワシは現体制が続く具体的な方策を求めておるのじゃ。なので、富美はしばし阿部様を抑え込んでおけ。で、義兵衛はどう考える」
甲三郎様は阿部を軽くあしらった。
「いくつか要点があり、これを解きほぐす必要があります。
まず、将軍家治様と田沼様の関係ですが、お世継ぎの家基様がお亡くなりになってから悪化します。理由は後付けで、例えば嫡男が元気な田沼意次を妬んだとか、いろいろ言われています。しかし関係が、悪化しないようにするために、家基様がこの事故を避けることができるよう策を行う必要があります。
ついで、次期老中の松平定信様と田沼様の関係改善です。定信様は田沼意次様が自分の活躍する目を潰したと大いに憎んでおります。思い切った施策ですが、田沼様主導によって白川藩主のまま元の田安家当主に戻って頂くことが良いです。このために田沼様が大層骨折りなさればなされるだけ、関係改善すると考えます。できれば、すべての黒幕が治済様に近い所の者、というと一橋家の家老に縁者を使わしている田沼様になるのかも知れませんが、ということを匂わせれば効果的でしょう。
松平定信様は英邁なお方です。田沼憎しの思いを捨て、政治の目指す所をきちんとご理解頂ければ、今のあり方をきっと判って頂けると思います」
「しかし、家基様の件も、松平定信様の件も、ここからは全く遠いのぉ。絵空事としか思えん」
甲三郎様がどこか遠い目で天井を見上げている。
確かにこの山間部の細山村で新田開発の成果を上げたところで、幕府に声が届くとも思えない。
仮に届くとしても、新田開発は緒についたばかりで成果が出るのは何年も先の話なのだ。
ピンと頭に閃いた。
「申し上げます。北町奉行の曲淵甲斐守様にご相談されてはいかがでしょうか。
江戸料亭の八百膳の主人の言うことには、聡い人の話はよく聞いて頂けるそうです。
今回の木炭加工販売の殖産例は注目されておりますし、秋口の七輪・練炭販売についても事前にご相談ということで糸口はあります」
甲三郎様は一瞬顔を輝かせたが、すぐに難しい表情になった。
「話の糸口は良いが『今後、このようなことが起きます』とは言えまい。さて、なんとしたものかのぉ」
甲三郎様が腕を組んで、またどこか遠い目で天井を見上げている。
爺の顔を見ると『ほれ、なんぞ意見を言わんか』というように顎を義兵衛に向けて小さくだがグイグイと振っている。
何か意見を求める時の甲三郎様の癖を爺は捉えたようで、発言するよう促してくる。
「少し無理筋かも知れませんが、田安家の当主が不在のこと、松平定信様が田沼様を非常に恨んでおられること、定信様は非常に英邁な方なので白川藩に押し込めた格好にしておくのは大変もったいないことを説いてみてはいかがでしょうか。
このような話の裏側に、神託の件があることを匂わせれば……」
「ああ、ちょっと止めよ」
甲三郎様は手を振って、義兵衛の意見を途中で止めた。
「その先は言うな。あとはワシが考える話じゃ。
全部言われてしもうたら、ワシは要らんことになってしまう。まあ、大体は判った。
それで、定信様が田安家当主となり、家基様が生きておられて将軍となられると、どうなると考えるのじゃ。今のように商家を大事にする政治が続くのかが重要じゃ。
それから、義兵衛の中の竹森様が言っておった『1945年の敗戦とアメリカ国による占領を避ける』という事態は防げるのか」
ここからは歴史シミュレーションの世界なのだ。
もっとも、その前の曲淵様に話を持ち掛けるというのも、ある意味シミュレーションではあるのだけど。
さて、田沼意次が失脚せず、嫡男の田沼意知が若年寄から老中となって政策を引き継ぎ、寛政の改革の出番が無くなると、一体何が起きるのだろうか。
多分、ロシアとの貿易が始まるに違いない。
貿易による莫大な利益は、幕府が自分のものとして確保する。
歴史にあったアメリカは最恵国待遇を失う。
西洋諸国の海外拠点が上海以外に、例えば日本の浦賀の港にも出島のような形で開設される……
「申し訳ございませんが、それだけで万事片が付くという訳ではないようです。外国との関係をどうするのか、また国内の金銀の扱いをどうしていくのかというのが大きな課題でして、その方向が少しでも違うとどうなるかが見えません。数日お時間を頂ければ、今後考えておいたほうが良い点を抜き出して説明できるようにはなると考えますが、一人では考えをまとめるのが難しいです」
シミュレーションは独り善がりではできない。
経験に富んだオブザーバーが枝葉や隘路の存在を指摘したり、適切な判断を下していく必要があるのだ。
「未来知識なら、阿部様が居るではないか。ワシはチト相手をし兼ねるが、そちなら大丈夫であろう」
昨夜のことを知っているだけに質が悪い言いように返す言葉もない義兵衛と竹森だった。
「それはそうと、他にこの世界に来ていそうな人物に心当たりはあるか」
甲三郎様は突然こう切り出した。
そういえば、そういった人物を早く見つけて保護しておく必要性もあった。
「申し訳ありませんが、こちらもすぐには答えられません。これも、阿部と話しをしてみます」
「判った。先の件も含めて二人で話をしておけ。ただ、よからぬ話をせぬよう、爺は一緒に聞いておるのだぞ、よいな」
こうしてまとめると短いが、この日の座敷での会談はあっけなく、早めに終わってしまったのだ。
流石にもう読めていたと思いますが「北町奉行の曲淵甲斐守様」が、体制へ喰い込む取っ掛かりのキーパーソンです。
さて、次回は再び夜の密会です。
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