将軍一族の未来家系図 <C2184>
第11代将軍の家斉様について、未来での評判を確かめようとする甲三郎様です。
説明が主体の、遅い展開で申し訳ないです。このあたりの歴史が頭に入っている方は軽く読み飛ばしてください。全然知らない方も、同様かな......?
だとすると、この話は誰向けのもの?
ハイ、きただの自己満足のためだけの話でございます。
「さて、来年の家基様、今から6年後の田沼意知様のそれぞれご不幸の件があり、それを踏まえての8年後の家治様のご不幸、田沼意次様の失脚の件があるという流れであることは理解した。
それで、11代将軍の家斉様、今は6歳で一橋家の治済様ご嫡男の豊千代様は、どういったお方と伝わっておるのかの。義兵衛から説明してくれんか」
どうも甲三郎様は阿部口調が苦手なようで、俺の方に指名があった。
「細かなところは、阿部の方が詳しいと思いますが、ざっと説明します。
天明元年(1781年)に9歳で家治様のご養子となられ、天明7年(1787年)15歳で11代将軍となられました。将軍であられた期間は50年の長きに及んでおり、将軍を退いてからも亡くなるまでの4年間は大御所として君臨されております。
将軍となられた当初の7年間は、松平定信様を老中として重用し、寛政の改革と呼ばれる緊縮財政政策を展開します。天明の大飢饉の影響もありますが、奢侈を禁じ物価を統制し、流入農民には帰農を促すなど、江戸市中の町人にまで質素・倹約を強いたことから不評の政治でした。
また、養子縁組解消による田安家の相続が認められなかった松平定信様が、この原因が田沼意次様にあるとし、政治から徹底的に田沼色を排除していきます。この結果、商業の発展が大きく抑制されます。
将軍家斉様の実父である治済様を大御所に祀り上げようとした家斉様に、老中の松平定信様が反対し頓挫したことから次第に疎まれるようになり、寛政5年(1793年)に失脚します。しかし、定信様が敷いた緊縮方針はその重臣たちによってしばらく維持されました。
この寛政年間に定信様が登用の重臣の最後の一人である松平伊豆守様(信明様)が文化14年(1817年)に亡くなると、御側用人の水野忠成様が勝手掛老中首座となり、銀改鋳などの経済重視政策を採るようになり、また賄賂も横行するようになります」
もともと大きな動きは頭に入っていたので、江戸・萬屋のお婆様から聞いた幕府重臣の情報、特に田安家・一橋家の情報などと組み合わせて知識を補強したのが案外と役にたった。
しかし、結局は、日本史の教科書に出ているような説明になってしまった。
「なにやら込み入っておるが、今から10年は飢饉があるものの商家の栄えを重視する政策が行われ、その後30年ほど緊縮という質素・倹約を旨とする政治になり、それからまた今のような商家繁栄の世が来るということか。
ちと長い周期じゃが、振り子のように方針が揺れて行き来するのじゃな。特に、振れる方向が最初に入れ替わる天明7年からが厳しいということか。
しかし、老中の方針の話ばかりではないか。結局、将軍様がどういった老中を重用するかで全てが決まるということか。
富美、家斉様について、知ることはないか」
どうやら、先程の説明内容は甲三郎様の求めていたものとは違ったようだ。
「はい、家斉様は69歳と長く生きられた方です。大変女好きということで、側妾が40人も居り、その内で子供を産まれた方は17人もおります。全部で55人の子を成しましたが、無事成長なされたのは男子13人、女子12人とのことです。
ただ、将軍家の子であるため飼い殺しという訳にもいかず、大名家へ養子として押し込んだり、正妻としての輿入れをするなど、結構な財政負担になっています。また、将軍として君臨した50年のうち、前半は緊縮続きであったため、その反動か、後半は結構散財しています。
こういった意味では、幕府財政を健全なものにするという点で、後世からあまり良い評価を受けておりません」
富美のもたらす話に、フムフムと頷いている甲三郎を見て、自分の説明の間違いに気づいた。
考えてみれば、将軍となった家斉様のことを何一つ直接に説明していなかったのだ。
富美はまだ追加の説明があるのか口を開いた。
「一橋家の治済様の五男として来年産まれるお子様は、なんと当主不在となっていた田安家を引き継ぎ、田安家の第3代の当主となります。この他に、清水家は第11代将軍のお子様がご養子となられ、結局将軍家と御三卿の血筋は皆治済様由来のものになってしまいます。
また、田安家3代目の当主となられる斉匡様も69歳まで結構長く生きておられますが、兄である家斉様と同様に子宝に恵まれ、10男19女をもうけられました。
このため、家斉様だけでなく、田安家からも御養子先や嫁ぎ先ということで、幕府の藩屏を作るのに役立ちはしましたが、これまた幕府の財政を非常に圧迫する原因ともなりました」
流石に阿部は女性だけあって房事には詳しい。
このようなことを諳んじることができるのは、最早高校生クイズで歴史部門ならトップレベルなのじゃないかな、と思ってしまった。
これだけのことが出てくるのであれば、目一杯まくし立てられてしまうと、普通人の富美さんが泡を吹いて倒れてしまったというのも判る気がする。
「富美も義兵衛も、もう語らんでも良い。あまりにも一辺に多くのことを聞くと、かえって混乱してしまう。
爺、今二人が述べたことをまとめてみてくれんか。系図のような恰好になると判りやすいぞ。不足する部分は、この場で聞け。
ワシは少し一人で考えてみるゆえ、後は明日にしよう」
甲三郎様にはかなり細々とした話までしてしまい、かえって混乱する情報を与えてしまったようだ。
爺は、先に書かれていた将軍家と御三卿の名前を見ながら、改めて吉宗様を起点とする系図を書き起こそうとしている。
そして、所々で確認のために質問を行い、おおよそ寛政13年(1801年・讖緯説による改元前)頃の将軍家と御三卿の系図を書き上げたのだった。
もう遅いのでその日はお開きとなり、各々夕餉を取って寝るばかりとなった頃、寝所の外から千代さんが小声で義兵衛を呼んでいた。
『まさか、千代さんから夜這いという訳でもあるまいに』
その昔、いや今でもかも知れないが、ちょっと気になる千代さんからの声を聞いてドキドキしながら障子越しに事情を聞く。
すると、なんのことはなく、富美さんが『内々に話がしたい』とのことだった。
おそらく、阿部は今日のことで本音のところをブチ撒けたいに違いない。
ちょっと残念という思いがこみ上げてきたが、ここは慎重に行動するしかない。
「甲三郎様に隠し事する訳にはいかないので、きちんと事情を話して二人の話がこっそり聞ける部屋に甲三郎様を先に案内しておき、その上で私が先に横の部屋に行こう。準備ができたら、富美さんをそこへ連れてきてほしい。勿論、甲三郎様が聞いていることは伏せるように」
障子を開けて小声で説明すると、流石に千代さんは全てを察しているようで黙って頷いた。
そして義兵衛は千代さんの案内で女中部屋のある棟の小部屋へ向かった。
千代さんは行灯に火を入れ『甲三郎様に説明をし、準備が整ってから富美さんを連れてくるのでしばらく待って貰いたい』と言い残して部屋を出て行った。
しばらくして、横の部屋でバタバタと人の出入りする音がしたあとシンと静まり、やがて千代さんが富美さんを連れて現れた。
「夜分に申し訳ありませんが、私に憑いている阿部様が是非話をしたいと言って暴れるので、このような仕儀となりました。
千代さん、申し訳ないけど、この場は遠慮して頂けると大変ありがたいのですが……」
物分かりが良い千代さんは一礼すると部屋の戸を閉め女中部屋へ足音を立て去っていった。
これでいいのか、義兵衛!
やはり系図が図示できたほうが良いのですが、挿絵を入れられませんでした。
さて、次話は、阿部・富美さんからの呼び出しに応じた竹森・義兵衛です。
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