江戸屋敷から登戸村へ <C2166>
お盆時期で、新しい話を読みたいという風に押されて、書き上げたところの投稿です。
義兵衛さんも帰省するのです。
■安永7年(1778年)4月29日(太陽暦5月25日)午後 愛宕山下・椿井家屋敷
「本日、萬屋での里の特産品販売の支援、および町方商家での帳簿付け方法についての修行を終えましたことを報告いたします」
義兵衛が改まって養父・細江紳一郎様へ挨拶した。
「うむ、ご苦労なことであった。さて、そちのこれからの主な務めは、椿井家の財務状況の確認から行ってもらうことになるが、先日の北町奉行様の同心へ話した件につき『一度里の甲三郎様とも意識合わせしたほうが良い』と殿が申されておる。
召し抱えのこともご実家へ直接報告しておらんじゃろう。ましてや養子縁組ということも同様に直には報告しておらぬ。
そこで殿は『この際数日の猶予を与える故、里にてややこしいところを整理してこい』とおっしゃっておる。それから、今は武家らしからぬ着物であることや、必要とする腰のものもない故、里のワシの実家で用意してくるのがよかろう。
明日から新しくここでの奉公と張り切っておるのかも知れんが、6日ほど里帰りしてこい」
確かに、義兵衛は村を出た時の名主・次男坊のままである。
全くの身分違いのお武家様となったものの、意識もなりも一向に改まった訳もなく、養父からするとその辺りが気になるのであろう。
ただ、なぜゆえ6日となっているのか不審に思っていると、続きがあった。
「では、当面の予定を説明しておく」
どうやら義兵衛の知らぬ間に、色々と段取りが進んでいたようだ。
「まず、明日朝にはここを出立せよ。夕刻にはお館の爺の家に着き、そこで泊まる。翌日2日にお殿様代理の甲三郎様へ、江戸の次第を報告せよ。夕刻からお館でお殿様代理自らの宴を予定しておる。その翌日は、養子縁組のご挨拶じゃ。ワシは出れぬが、爺がうまく治めてくれよう。新しい家族で団欒致せ。
その翌日は、朝からご実家へ戻り1泊せよ。村を挙げての祝いをすると聞いておる。そして、夕方にはお館の爺の家へ戻り泊まる。翌日は江戸へ戻る、ということで、5泊6日の予定じゃ。ただし、もし甲三郎様より特段のご用を申し付けられた場合は別じゃ」
なんと、細かな予定まできっちりと組まれている。
それから『村を挙げての祝い』とは一体なにごとだ。
寒村の金程村では丁度田植えが終わるかどうかという一番人手がいる時期に、何を甘いことを考えているのだろう。
まだ飢饉を乗り切れた訳でもなく、対策の途半ばというのに、このような対応でよいのだろうか。
そのような思いが頭を掠めたが、ここでは何を言ってもしょうがない。
「ははぁっ。ご配慮頂き、誠にかたじけなく存じます」
その様子を見て嬉しそうに何度も頷く養父だった。
■安永7年(1778年)5月1日(太陽暦5月26日)午前 江戸屋敷 → 登戸村
お武家様の旅装束を着せられた上に、江戸のお屋敷を出る時に、書類や文の入った箱を沢山渡された。
「江戸や里とのやり取りは、お館の若いものが往復して連絡する仕組みじゃ。おおむね3日間隔で1往復が繰り返されておる。今回は、義兵衛が6日の間で1往復の予定なので、予定の者も間隔を空けて調整して、いささか変則的になっておる。義兵衛にとっては、これが最初のお役目じゃ。荷を粗末に扱ってはならんぞ」
その声に送り出されて、江戸のお屋敷を出立した。
道行を確認したが、赤坂御門から三軒茶屋を経由して津久井往環道に入り、多摩川を渡って登戸から細山村に至る見覚えのある道が最短となっている。
多少慣れた感のある道だが、武家装束で歩くと周囲の見え方まで違って見える。
『おや、何か優先して道が歩けるぞ』
町並みが消えて農村部に入ると、例えば棒手振りに重い荷を下げた者は、向き合うと少し避け邪魔にならないように道の真ん中を譲ってくる。
確かに、以前は自分もお武家様と行き交う時には、道端に寄っていた覚えがある。
それが今では自分が道を譲られる側になっているのだ。
運命の不思議さを感じながら、里への道を歩んでいる。
昼頃に多摩川の渡し船で渡り、懐かしの登戸村に着いた。
そして、川崎・府中街道と津久井往環道の交差する場所にある小料亭・加登屋の戸を潜る。
「こんにちは、義兵衛です。江戸では大変お世話になりました」
そう声を掛けると、主人の加登屋さんだけでなく、中田さんも転がり出てきた。
「あれれ、義兵衛さん?? 本当に義兵衛さんなのかい。すっかりお武家様ではありませんか」
二日酔いの体で炭屋番頭の中田さんが声を掛けてきた。
加登屋さんは二日酔いなのか、まだ青い顔をして茫然としている。
「実は、初仕事として江戸屋敷からの文を里の館に届けるお役を賜りました。丁度昼時なので、ここで一休みしようと思ったのですよ」
加登屋さんは、この言葉を聞いて合点がいったのか硬直が解けた。
「家にたどり着いて気が緩んだのか、昨夜は中田さんも入れて大宴会だったのです。ようやく起きられたところで、あの声を聞いて、一瞬そら耳か、はたまた亡霊かと思ってしまいました。大変失礼しました」
加登屋さんの顔色が戻ってきた。
「金程村からの朝便はついさっき帰ったところですよ。毎日2回、朝と夕に、1回7人で15000個の小炭団を運んできます。内では朝便・夕便と呼び慣わしていて、もうすっかりお馴染みです。
1回で140貫(=525Kg)もの荷になりますから、結構重労働なのでしょう。時々、いつもの子供達だけでなく大人も混ざることがあるようです。帰りは、また炭屋に寄って、持って帰れる木炭があると、ほぼ同じ量を持って帰るので、本当に苦労していると思いますよ。
でも、登戸に着いてからこの加登屋で出す弁当を食べると、皆『美味しい』『元気が出る』と言ってます。苦労する御褒美として、丁度釣り合っている、と言う感じですか」
加登屋さんが不在の約1ヶ月の間、この小料理店を仕切っていた手代が話しかけてくる。
こうした里の皆の苦労の上に、あの大金があることを強く意識する話だ。
炭団を運んでくる者だけでない。
工房では日産3万個という1ヶ月前には全力投球で辛うじて達成できるかどうか、という水準の生産量を維持しているのだ。
この生産量を維持するのは、並大抵の努力ではなかろう。
不意に薄っすらと目尻に涙が滲んだ。
「まあ、こういった話は店の中で、にしましょう。そんな所で突っ立ったままでは疲れましょう」
加登屋さんは店の中に招き入れ、手代に義兵衛さんの昼食を用意するよう言いつけた。
「ああ、言い忘れておりましたが、江戸で主人から預かったお金は、先ほど助太郎さんに預けておりますので昼過ぎには百太郎さんに届くと思いますよ。
それにしても、今回の帰還は『故郷へ錦を飾る』ですね。活躍振りは、大番頭の忠吉さんからタップリ聞かされましたし、昨日の帰り道でも加登屋さんからもお聞きしました。当分義兵衛さんの逸話には困らないですよ」
中田さんは事も無げに言うが、現場の大変さを知っている加登屋さんから短い感想が入った。
「そんなに簡単な、生ぬるい話じゃないのですよ。錦を飾るといっても、まだ道半ばという所で、まだまだ重荷を背負っている身なのですよ。日本橋にいる時のように側にいて一緒に支えてやれない我が身が、実の所悔しい位です」
意味ありげな加登屋さんの言葉に中田さんは黙り込んだ。
江戸で料亭の亭主として思い切り名を揚げた加登屋さんとしては、この先について思うこともあるのだろう。
「義兵衛さん、まだまだ大変とは思いますが、ここで昼食を味わっていってください。いや、お代は結構です。本当に江戸ではお世話になりっぱなしでした。『焼き魚の焜炉炙り』も、江戸の主要な料亭が一同に会する席で披露させて貰えるなんて、今思い出しただけでも身震いする体験でした。ほんに一生ものの話です。自分にとってこれ以上ない晴れ舞台でしたよ」
この感動の思い出話に付き合っていては、いつまで経ってもこの場を抜け出すことができなさそうだ。
文を里のお館に届けるという大任の途中ということもあり、出された昼食をさっさと片付け、丁寧にお礼を言って店を出立した義兵衛であった。
相変わらずストックレスでの投稿なので、あとから話がネジれるようなら大幅修正することを覚悟して投稿しました。次話はまだ詳細構想中です。またしばらく途絶えますので、ご承知ください。