萬屋からの出立 <C2165>
165話目で文字数が50万字を越えました。文庫本にするとだいたい5冊分にもなるという膨大な文字数になってしまいました。
さて、小説の中では宴会が続きますが、状況描写が下手で申し訳ありません。
そして、出立の日が来たのです。
■安永7年(1778年)4月28日(太陽暦5月24日) 日本橋・萬屋
4月もとうとう末になってきたが、たった1ヶ月余りの期間は、萬屋にとって激変の日々であり、この変化が拉致してきた、いや応援しに出張ってきてくれた加登屋さんと義兵衛の二人に負うところが多かったのは言うまでもない。
27日に浅草・幸龍寺での開かれた「仕出し膳の座」を成功裏に終えたその夜も慰労会を兼ねた送別会をしている。
だが、それぞれの残務を整理した28日は、関係する方々を交えての本格的な別れの宴となった。
八百膳の主人・善四郎さんは料亭を女将に任せ、夕方から萬屋に逗留している。
「座」設立の関係で一緒に行動することが多く、その陽気さからすっかり客間の主になっている。
この日にあわせて登戸からは、支店の中田さんも来ており、本店の賑わいなど普段と大きく様変わりしている具合に大層驚いている。
夜遅くになってから、京橋・坂本から主人・女将・板長がわざわざ萬屋まで来て、別れの宴会に参加した。
「1ヶ月余りという短い期間でしたが、誠に無理を言って義兵衛様と加登屋さんにこの萬屋で卓上焜炉販売の陣頭指揮を執って頂いたからこそ、今の盛況があることは間違いございません。ただただ商品を並べて見せて売るという今までの商売とは随分違う方法や手段を見せつけられ、また、伝手も多くできたことなど、いくら感謝しても感謝し過ぎることはございません。萬屋一同、この恩義は決して忘れません」
挨拶の場で色々と褒めてもらいはしたが、実は一番変わったのは千次郎さんに違いない。お婆様が義兵衛に向けて深々とお辞儀をする。
「義兵衛様、この千次郎もあなた様の影響を受け、この最近の10日程で随分変わったように思いますぞ。以前の様に、ただ座して睨みを利かすというのではなく、自らがお役人様やお客である料亭に足繁く通って話し合いを重ねて言い分を通してくるなぞ、つい先日までは思ってもみませんでした。ほんに亡父・七蔵が再来してくれたかのようです。
無理にも来て頂いた甲斐がありました。
わたくしも、自分に課せられたお役目をきっちり果たすまでは頑張りますぞ。萬屋をこういった良い方向に導いて下さったことに深く感謝いたしますぞ」
北町奉行の曲淵様にご挨拶して以降、その構想を短期間で現実のものとするために、寝る間を惜しんで準備に奔走したのだ。
仕出し膳を出す料亭を集めて新しく座を作るという大舞台を前に、千次郎さんは元締めとして八百膳・善四郎さんと一緒にお役所への陳情・趣旨説明、主要料亭への根回し・説得と、無茶とも思える予定をこなして回ったのだ。
もちろん、きちんとした資料・想定問答など、義兵衛や善四郎さんが手伝ったにせよ、幾晩も徹夜に近い事前準備を行ったのだ。
こういった場が、千次郎さんを化けさせたと言っても間違いではなかろう。
誠に場が人を育てたのだ。
「義兵衛さん、ほんの一月前と違い、本店がこんなに繁盛しているとは思いませんでしたぞ。この時期は木炭の需要が大きく減る時期だけに、他の木炭問屋の店先は閑散としておりますでしょう。ところが、この萬屋はひっきりなしに人の出入りがあり、まるで秋口の売り出しや年末の時のような賑わいではないですか。銭を抱えて駆け込んできて、そして焜炉や小炭団を抱えて出ていく丁稚の多いこと、驚きましたぞ。焜炉に萬屋の命運を賭けるという話で金程村から引っ張り出しましたが、これは賭けに勝ったということですな。
いつぞや教えて頂いた秋口の七輪・練炭決戦も、この分では萬屋の一人勝ち間違いありますまい」
登戸から駆けつけてくれた中田さんはそう話しかけてくる。
萬屋本店からの無理にも似た要請に対して、中田さんは登戸からひたすら物を送り続けてくれたのだ。
勿論、金程村工房の助太郎さんがどんな手品を使っているのかは判らないが、毎日おおよそ3万個の小炭団を納めてくれているというのが大きいと説明はしてくれる。
この結果、送り込まれた小炭団はすでに90万個(=1350両分)を超えている。あと60万個(=900両分)が契約の残り分で、5月中には完了できる見込みとなっている。
そして、小炭団以外にも、金程製焜炉や炭団を相当数量送り込んできてくれており、この追加分だけでおおよそ80両にもなる。
聞くと、原料となる木炭について、登戸支店を挙げて助太郎の工房への斡旋も始めていると聞いた。
おそらく、金程村の周囲は出せる木炭を出しきったのだろうか、武蔵国からだけでなく、相模国の山村からも木炭が運ばれるよう手配し始めている。
近隣の黒川村ではこの特需に応えるべく、普通は木炭を作らないこの時期に炭窯を起こすことも行われているようだ。
久しぶりに金程村の様子を聞けて懐かしさが込み上げてくる義兵衛だった。
「4月頭からの坂本店頭へ加登屋さんの応援、誠に痛み入ります。最初に『しゃぶしゃぶ』を売り出した時の混乱を乗り切るために、加登屋さんを応援に寄越して頂けたのは、本当に有難かったです。来て頂いた最初の5日間は、想定もしていないような店の混み様で、自分たちではとても捌ききれなかったです。『出す料理は絞り込むこと』という助言を頂けなければ、今の坂本はありませんでした」
料亭・坂本の女将は焜炉販売の滞留で大金をせしめたことに口を拭って加登屋さんへの感謝を口にする。
「ただ、ポン酢だけでここまで来ましたが、どうやら近隣の料亭もどうやら似たものを作ることができたようで、実に困ったものです。加登屋さん、なんか工夫するための新しいコツがあれば教えてくれませんか」
坂本の板長はこう言い始めた。
最後までしゃぶろうという根性には恐れ入る。
言い寄られた加登屋さんは困ったという目で義兵衛にすがる。
義兵衛はしょうがない、という風で簡単に説明をする。
「ポン酢ではない漬け汁としては、胡麻ダレというのがありますよ。基本は良く挽いた擦り胡麻に醤油と酢、それに濃い目の出汁で溶いたものです。砂糖で味を調えます。擦り胡麻2に対して、醤油・酢・出汁はそれぞれ1です。少し味噌を入れるのもよいかもしれません。
もう実際に作る時間も材料もないようですので、実物をお見せできませんが、この言葉だけで後は工夫してください。本当にもう『これっきり』ですよ」
義兵衛には意味不明の『これっきり』が早口で3回繰り返されるフレーズが頭をかすめる。
そして、義兵衛が坂本の板長に説明する声を善四郎さんは聞きつけて擦りよってきた。
「おい、こらぁ。義兵衛さん、坂本にだけ教えるというのはズルいですぞ。坂本さんがいくら萬屋が贔屓する料亭とはいえ、この八百膳も料理の研究に加えて頂くことになったハズではないですか。
ええと、胡麻ダレですな。坂本さん、一緒にこのタレを作りましょう。いやあ、これは大収穫ですぞ。
それにしても、坂本さんの所は運がいい。こんなに近くで新しい料理のことを聞ける場所があったなんて、羨ましい限りですぞ。この4月でどれだけ儲けたのか、考えてもしょうがないが、相当なものでしょうな」
すっかり酔っぱらった善四郎さんが持前の陽気全開で割り込んできた。
炙り料理以外の新しい料理の出どころが義兵衛であることは、この席ではもう公然の秘密であった。
そして仕出し膳の大御所である八百膳・善四郎さんにからまれて、坂本の板長はあわてている。
それを見て面白がる千次郎さんと、凍りつく加登屋さんがいた。
こうした混乱を交えつつ宴は終わり、夜が明けた。
■安永7年(1778年)4月29日(太陽暦5月25日) 日本橋・萬屋
旧暦の4月29日は小の月であるため4月の最終日であり、そして、加登屋さんと義兵衛が萬屋に詰める最終日、出立の日であった。
その日の早朝、加登屋さんは、中田さんと一緒に萬屋を出立した。
勿論、萬屋からは諸々のお礼として金15両を渡されている。それ以外に、料亭・坂本からのお礼もあり、ホクホク顔での帰省なのだ。
加登屋さんを見送ったあとは、義兵衛の番だ。
萬屋は義兵衛さんへのお礼金として、35両と信じられないほどの大金を用意していたが、これについては中田さんに託して助太郎・百太郎に届くよう預かってもらっていた。
なので、ここに来たときの手荷物だけの出立のつもりだった。
しかし、何度ふりかえって挨拶をしても、結局は愛宕山下の椿井家屋敷の門前まで皆が名残惜しそうにぞろぞろと付いて来るという行列での移動となった。
結局、義兵衛は椿井家の脇門前で養父・紳一郎様が見守る中、一行へ最後の挨拶をして門を潜り、やっとのお開きとなったのだった。
4月29日の午後に別れの挨拶を済ませ江戸屋敷に入る義兵衛でした。
次回は申し訳ありませんが、ちょっと準備ができておらず、1週間~10日ほど投下を休みます。
必ず戻ってきますので、お待ちください。
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