江戸・椿井家屋敷へ <C2160>
昨日の同心・戸塚様との会談の結果、お殿様へ報告に向うのです。
■安永7年(1778年)4月22日(太陽暦5月18日) 愛宕山下・椿井家旗本屋敷
昨日の顛末をお殿様に報告する必要があるという認識で、義兵衛は早朝に屋敷を尋ねた。
領地の殖産方針として、焜炉販売をより確実にせんと許認可制度の立ち上げに尽力しているものの、町奉行の知己を得たことは伝えておかねばならないこともある。
しかし何と言っても一番問題になりそうなのが、大飢饉の神託を受け、その対策を打つために動いていることを知られてしまったことなのだ。
これは、飢饉の噂を江戸市中に流し強いて混乱させようとしている、と悪い方向へとろうと思えばそうともとれる話なのだ。
そう思われたので、一応、同心・戸塚様にはお願いをして確認を取ったが、こういったことに不意にお殿様が巻き込まれてしまう懸念もあり、いち早く知らせるべきと判断したのだ。
義兵衛が門を叩くと、養父・細江紳一郎が顔を出した。
「このような早朝、突然になにごとじゃ。まあ、門前では何じゃ。さっさとこちらへ入れ」
言われるまま、少し開いた門脇のくぐり戸を入り、横の詰め所・番小屋に入った。
「突然の訪問で申し訳ございません。是非にお耳にいれておいた方がよいと考えられる事案がおきましたので報告に参りました。
今現在、僕は卓上焜炉の販売をより確実にするため、仕出し膳に使用できる焜炉の許諾制度を立ち上げようと萬屋で活動しております。この活動の一環として、一昨日、料亭・八百膳の手引きで北町奉行である曲淵様にご挨拶する機会を得ました。そして、この制度に興味を持たれたのか、町奉行配下の同心・戸塚様に仔細な部分を詰めるよう仰せになり、昨日、戸塚様が萬屋を尋ねてこられました。
萬屋での聞き取りの折、戸塚様へ『金程村に飢饉の神託があり、それを回避するため領地をあげて取り組んでいる』という内容を萬屋主人・千次郎さんが話してしまっております」
養父・紳一郎さんは、事情をあまり良く解っていないため、この報告でなにが問題なのか認識されていないような様子だ。
「それで、それが一体どうしたというのだ。その程度で慌てねばならん、という理由がさっぱり見当つかんぞ」
「この話が町奉行様の耳に入ってしまい、例えば陰陽師を管理している寺社奉行様へ注進されて、そこからお殿様へ事情説明を求められたりすることが考えられます。その結果、千次郎さんとの話に矛盾があると、町奉行から改めての詮議が行われることが考えられます。そして、世の中を惑わす噂を流しているとして、ご処分が下される可能性もあるか、と心配になり駆けつけた次第です」
「なるほど。『たかが噂ごときで右往左往している』と笑ってくれている内は良いが、これに実際に膨大な金がからんで来ていることが危ないのじゃな。ましてや、利権の温床になりそうな許諾制度にからむことであれば、牽制しようとする輩が出るやもしれぬ。
むふぅ~、なかなか鋭い観察ではないか。早速に知らせにくるというのも気が利いておる。感心なことじゃ」
さすがに江戸屋敷全般を取り仕切っている細江紳一郎様だ。
『大金がからむと、どこで足を引っ張られるかも判らない』という、それまでの義兵衛・竹森では認識されていなかった視点で話を上手く整理してくれた。
「もうじきお殿様も朝食と朝の支度が終わり、ご進講を受けられる時刻じゃ。今朝のご進講は中身を変えてこの件を上申することにしよう。幸い、外部から呼んでいる師匠ではなく、ワシの担当分じゃ。お殿様も今の椿井家内部の財政状況や金の遣り繰り具合を聞いて、奥方様の無心にどう応えるべきか頭を悩ますより、多少明るい儲かり状況と、それに伴う懸念事項を聞いておくのも為になろう。義兵衛も同席して、懸念事項をご報告するがよい。
いや、儲かり状況は萬屋から連絡が来ておるので、義兵衛は心配することはない。萬屋の大番頭・忠吉さんは、こういった地道な連絡は実に確実にこなす人で助かる。どんなに忙しい時でも、こうやって愚直に同じようにできる、というのは、これまた一種の才能だと思うぞ。
ところで、今朝のご進講は、若君も同席される。若君は御年11歳で、少し前まで里の寺子屋で同席しておったはずじゃが、存じておろうの」
そういえば、椿井家の方針として、出自・男女を問わず領地内の6歳~10歳は細江村の寺子屋に通うことになっているため、ぎりぎり1年はダブっているはずなのだが、実は記憶があまりない。
義兵衛は名主家で家の財力にゆとりもあり、また勉学にも多少秀でたところがあったため、10歳を過ぎても師匠の所に出入りはしていた。
考えれば、親の威光・身分差なんていうのはおかまいなしの塾ではあったが、士分と農民で扱いに若干違いがあったのかも知れない。
まあ、見れば思い出すかもしれないし、若様とて同じようなものだろう。
「ワシは、今のお殿様にお仕えするが、義兵衛は若様にお仕えすることになるのじゃぞ。そのあたりはきちんと意識しておくがよい。
この寺子屋の制度運営で、お家は毎年かなりの出費じゃが、人は家の宝じゃ。この制のおかげで、領内の人物の見極めや横のつながりが上手くできあがっておる。この出費だけは、ゆく先々で皆のためになるものゆえ、苦しくても削ってはならぬぞ」
こういった常日頃から発せられる一言一言が義兵衛にとっての勉強になるのだろう。
やがてご進講の刻限となり、屋敷内の書見の間に向かいご出座を待つ。
お殿様と若様が現れ上座に着き、紳一郎さんと義兵衛は平伏する。
「本日は、お家の財務状況のご進講を予定しておりましたが『ご領地の木炭加工販売の殖産にかかわる件で懸念事項がある』とここに控えております義兵衛より申し出があったため、この殖産状況と懸念事項につきご報告の場とさせて頂きたい所存でございます。今回、この報告のため同席しております。若君様は、義兵衛をご存じであらせられますか」
「寺子屋で優秀な先輩が居ると聞いており、師匠のところへ出入りするところをしばしば見かけておったので、知っておる」
確かに、ちっこいやつがこっちを見ていたのを思い出した。
どうやら義兵衛はあまり周りを見ていなかったし、小さい子に構うということもしていなかった。
もっとも、今回の徒士への取り立てなんてことが無ければ、一生縁がない生活で、ちっとも困ることはなかっただろう。
「有難きお言葉で、誠に以って恐懼に堪えません。椿井家のため、領民のため一生懸命励みますので、よろしくお願い申し上げます」
とりあえず平穏に挨拶を済ませると、細江紳一郎様が萬屋の現在の様子と売上・金程村の取り分の実績・見込みを説明した。
「従いまして、この夏場での売り上げだけで、金程村の木炭加工工房が稼ぎ出す金額は、おおよそ金1400両となる見込みが確定しております。工房での材料費など約400両を除いても金1000両あり、領地からあがる年貢の4年分に相当します。このお金の用途については、米問屋からの借入金への充当・猟官活動資金・里の館や各村での飢饉対策などを予定しておりますが、まだ詳細は煮詰めておらず、後日別途ご報告させて頂きたく存じます」
帳簿上の大金を前に、場は非常にニコやかな雰囲気になっているが、このお金がいつも入るという訳ではないため、できる範囲を見極めることが重要なのだ。
そして、限られた原資を上手く使って、大飢饉になっても領民が餓えないように手を打たねばならない。
そのためには、どんな些細なことでも大問題となる前に潰しておく必要があると思っているのだ。
「おそれながら、今回起きました懸念事項についてご報告させて頂きます」
義兵衛は口火を切った。
旗本・椿井家の屋敷の場所について、小説では愛宕山下に設定していますが、江戸時代の地図を丹念に調べると、飯田橋近く(田安門から近い牛込御門)にある日本歯科大学付属病院の近傍にあることが判りました。路地の突き当たりで、周りを他の旗本にぐるっと取り囲まれていますが、敷地自体は結構大きいです。
次回は、お殿様への報告場面となります。
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