浅草・幸龍寺での仕出し膳 <C2153>
いよいよ北町奉行様とのファーストコンタクトです。
■安永7年(1778年)4月20日(太陽暦5月16日:大安)浅草・幸龍寺
日本橋の店は大番頭の忠吉さんに任せ、千次郎さんと義兵衛は浅草山谷の八百膳に出向いた。
八百膳では、すでに仕出し料理の準備が終盤を迎えており、持って行く膳や茶碗、焜炉、料理を載せた皿を平箱に入れて持ち出す用意をしている。
御飯と汁物はギリギリまで待って、御櫃と寸胴鍋で運び込み、お寺で注ぐ手はずとしている。
特に手伝うこともなく、最初に運び込む荷に同行する格好で、八百膳から幸龍寺へ向った。
道具や材料一式は、寺の庫裏の一角にある台所に運びこまれ、飯・汁以外のものが膳の上に配置されると、善四郎さんが確認をし、問題があれば手直しをしている。
今回出す卓上焜炉料理は、八百膳さんが工夫を追加した『豆乳汁野菜煮』となっている。
八百膳さんは、さすがに他の料亭と違い、教えたものをそのまま出すのではなく、膳に合わせてキッチリ仕上げている。
出来上がった膳は、小坊主が客殿へ順次運んで行く。
客殿では50脚もの膳がずらっと並べられており、その入り口の所には見本の膳と、火鉢と何本かの火縄が用意された。
千次郎さんと義兵衛が客殿の入り口脇にある控えの間で茶をすすりながら待っていると、やがて法事が終わったのか、本堂からドヤドヤと出席者が客殿に入ってきた。
席次は皆承知しているようで、それぞれ決まった場所に着座していく。
最後に主催者が客殿に入ると、給仕の面々に合わせて善四郎さんも客殿に入っていった。
「皆さま、本日は法事にご出席頂きありがとうございました。
<挨拶は中略>
本日は、趣向を新たに、最近江戸市中で流行り始めている卓上焜炉を使った精進料理を用意させて頂きました。
仕出し膳を造った八百膳が、不慣れなこともあろうと始めに焜炉料理の説明をしたいそうなので、煩わしいとは思うが聞いてやって頂きたい。では、頼もう」
「皆さま、浅草山谷町・八百膳の主人・善四郎と申します。このたび弊料亭の仕出し膳から卓上焜炉の精進料理をお膳立てさせて頂きました。近々、江戸市中の料亭で『湯豆腐』『しゃぶしゃぶ』『どじょう鍋』という卓上焜炉を使用した新しい料理を出す料亭が何軒か出て参りましたことは、すでにご存じでいらっしゃいましょう。仕出し料理の八百膳としましても、この新しい料理を取り込んで皆さまに味わって頂こうと工夫を重ねましたのが、膳の右奥に置かれております焜炉の上の『豆乳汁野菜煮』でございます。このまま温めずとも決して食べて悪いものではございませんが、やはり焜炉で煮あがった直後の状態のものを味わって頂くのがよろしいかと存じます。それでは、これより皆さまの御膳の上にある焜炉に火を入れさせて頂きます」
小坊主が火鉢より火縄に火を採り、手際よく点火して回る。
50膳もあるとすると、火をつけて回るのも予め担当を決めて要領よくしなければならないが、ご版や汁物を配布するのと同じ段取りなので、難しくはなかったと後から聞いて納得した。
「火はおおよそ6分の1刻(=20分)の間燃え続けます。煮立ち始めてから火が燃え尽きるころが丁度食べ頃となりますので、おおよその目安にして頂ければと存じます。もし、良くお分かりにならないという向きがございましたら、この善四郎までお声掛けください」
「うむ。焜炉の中に火がある内は、八百膳はそのままそこへ控えおれ。
さて、皆さま、頃合いを見て食すのが焜炉料理という話でございました。まあ、珍しいものですので、法事の土産話にも丁度良いかと思います。では、精進料理を頂きましょうぞ」
幸龍寺の客殿のもてなしは、卓上焜炉とそれを使った料理の話題で大層盛り上がっていった。
出席者全員の焜炉の火が消え『豆乳汁野菜煮』の皿はすっかり空っぽになっているが、他の菜はまだ残っており、皆はそれを味わっている。
火が消えたので、善四郎さんは客殿入り口脇の控えの間に戻ってきた。
「主人の挨拶の中で、まだ珍しい焜炉料理の説明を挟んで火を入れさせる、という仕儀でこうなったが、宴会で実質の食事時間が半刻余り(=1時間程度)とすると、挨拶の所で火をつけるのは、これではちょっと面白くありませんなぁ。食べごろの時間がもう少し後になるように、火を入れる時間を工夫すべきなのでしょうな」
確かに、仕出しの八百膳さんだけあって、仕出し料理を使った宴の組み立てまで配慮している。
1刻近くまで保つ炭団、という手もあるのだが、まあ聞かれていないので敢えて教えることはない。
「では、そろそろ客殿横の脇部屋へ参りましょう。そこへお奉行様を引っ張ってきます」
客殿を囲むように渡してある大回廊に沿って小部屋が沢山しつらえてある。
普段、この場所は客殿に出た主人の従者などがたむろできるようにした場所なのだが、客殿の中ではしにくい話をする場合にちょっと廊下で立ち話ということもできない場合に都合が良い部屋なのだ。
脇部屋に入ってしばらくすると、善四郎さんが結構な歳の人を引き連れて部屋に入ってきた。
『この方が北町奉行の曲淵景漸様なのですね』
目で問いかけると、そうだというように善四郎さんが頷く。
千次郎さんと義兵衛はその場で平伏した。
「この卓上焜炉を使った仕出し膳について、是非お話を聞いて頂きたく、宴の途中でお声掛けさせて頂きました。
この話に関係するものとして、江戸市中でこの焜炉と焜炉に使う小炭団を扱っている木炭問屋の萬屋千次郎と、この焜炉・小炭団を考案・生産している土地の領主・椿井庚太郎様が家来・細江義兵衛様でございます。両名とも初のお目見えとなりますが、是非お見知りおきください。今回、この二人と萬屋さんの応援があって、初めて仕出し料理として卓上焜炉を使うことができました。このたびの精進料理は、お口に合いましたでしょうか」
「うむ。なかなか面白いものよ。仕出し料理に暖かい菜があるとは、馳走するほうも、されるほうもなかなか良いことに思うたぞ。今の所、世に出ている卓上焜炉料理はまださほど料理の種類がないと聞く。今回の『豆乳汁野菜煮』はまだ瓦版でも書かれていないところを見ると、八百膳が新たに考案したものなのか」
「最終的に調整致しましたのは八百膳でございますが、精進料理として焜炉を使うとどういったものが作れるのかということは、そこに控えおります萬屋さんの協力があってこそのものです。今回、お耳に入れておいて頂きたいことは、その萬屋さんからの申し入れから始まっております」
お奉行様は、千次郎さんと義兵衛の方へ向きなおした。
「こういった若い者がいろいろ工夫を重ねるというのは良いことじゃ。それで町奉行の耳に入れておきたい、というのは一体どのような話なのじゃ」
『多少事前の説明はしているでしょうが、結局は丸投げという格好ですか。ここでグズグズしている訳には行きません。ちょっとの間で全体の構図を判らせる必要があります。ならば、ここは俺が行くしかないか』
「恐れながらご説明申し上げます」
義兵衛は機先を制した。
「確か、旗本椿井家家臣・細江義兵衛と申したな。村で作った木炭にくっついて来て、使われる場まで引っ張り出されるとは面白いものよのぉ。さて、どんな話じゃ」
思ったような情景を記述することができず、ヤキモキします。
今は千歳烏山に移転してしまった田甫の幸龍寺ですが、江戸時代は結構大きな敷地でした。
次回は、思わぬ人物を紹介されます。
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