曲淵景漸様のこととお婆様の仕事 <C2150>
お婆様から曲淵景漸様のことを聞きだします。そして、お婆様に与えられたお役目の話しもついでに聞いてしまいます。
八百膳から戻った千次郎さんは、お婆様へ首尾を報告する。
勿論、義兵衛が善四郎さんに説明した「仕出し料理を出す料亭で座を作る件」「焜炉審査を色々な立場の人で協議する件」などの具体策も入れる。
しかしお婆様が一番驚いていたのは、善四郎さんが私的な場所で義兵衛さんを北町奉行へ紹介する、と言ったところだった。
「お婆様、北町奉行の曲淵景漸様はどういった方なのか、知っていることをお教えください。この先を占う重要な所にさしかかっているのです。よろしくお願いします」
義兵衛にとっては苦手なお婆様ではあるが、ここが勝負所と認識し、真剣にお願いをした。
「その通りのようじゃのぉ。では、このお婆の知ることを教えて進ぜよう」
そしてお婆様から聞いた話は次の通りであった。
・曲淵家は武田家遺臣だが徳川家康に気に入られ旗本として500石で召し抱えられる。
・享保10年(1725年)に曲淵景衡の次男として誕生。
・寛保3年(1743年)19歳:兄・景福の死去に伴い家督を継承。
・寛延元年(1748年)24歳:小姓組番士に就任、以降は小十人頭、目付と昇進。
・明和2年(1765年)41歳:大阪西町奉行、甲斐守叙任。
・明和6年(1769年)45歳:江戸北町奉行就任。
現在54歳で北町奉行として9年目。
かなり細かい配慮を行う人で、つながりを大事にしている。
例えば、蘭医からの要望に応え明和8年に行われた刑死人の腑分けを江戸の医師達に伝令したのも、この御奉行様。
法令全般だけでなく、経理にも通じており、人情味も篤い。
頭脳明晰過ぎる所があり、道理に合わない主張は嫌う。
どうやら、善四郎さんの印象通りの人のようだ。
ならば、数多くいる幕府中枢の人材の中で当たりを引いている可能性は高い。
江戸時代の日本史で有名な杉田玄白の解体新書にもどうやら絡んでいるらしい。
こういった裏の話は学校なんかで習った記憶はない。
経済にも明るいということは、貨幣経済の到来を予期して幕府を動かしている老中・田沼意次にもつながりがあるに違いない。
実際、大阪からどういう伝で江戸に呼び寄せられたのか、不思議なことである。
「町奉行は激務じゃし、配下の与力や同心を上手く使いこなせるかが奉行職を続ける鍵なのじゃ。ほとんど世襲になっておる与力との相性が悪い御奉行様も昔はおってのぉ、1~2年もせぬうちに辞職する御奉行様もおった。
曲淵様は大阪で4年、そこから来てもう9年も御奉行職を務めておる。ということは、よほど町奉行という職が性にあっておるのじゃろう。ほんにまだ若い内から難しい職を上手くこなしよるとは、お侍様にしては大した者と思うのじゃ」
町奉行というと、普通の人はTVの影響でお裁きの場面しか思い浮かばないのだが、実際の職務は江戸の治安維持だけでなく、民心の安寧・経済政策なども担っており、高等裁判官+警視庁警視監+都知事といった職務を北・南で毎月交代で担当しているのだ。
特に、都知事相当の職務というのは、お婆様から奉行所のしている仕事の中身を聞いて理解した次第なのだ。
そうすると、与力には政策を吟味する都議会議員相当もいるはずだ。
「北町奉行所は、ほれ、常盤橋御門を入った直ぐのところじゃし、お奉行様はそこに住んでおる。そして、そこに詰めておる与力や同心は、ここから弾正橋を渡った八丁堀や、その隣の茅場町に屋敷を与えられておる。御奉行様の声掛かりがあれば、与力様や同心様の屋敷に出入りすることも叶うやも知れんのぉ。
炭屋では、屋敷の主人に目通りすることは難しいが、料亭の主人であれば料理の説明をする場面があるとは、流石に八百膳の善四郎さんは搦め手を使うのに長けておる」
「お婆様、お教え頂き、ありがとうございました。この御奉行様からの信頼を勝ち取り、順を追って色々と打ち明けて対策をお願いすることで村を襲う大飢饉を乗り越えることが出来そうです。
もし、何かまだ教えて頂いていないことで人柄を覗わせるようなことを見聞きしましたならば、またお教え頂ければ助かります。お婆様の広い人脈で、いろいろ調べて頂ければ本当に助かります。よろしくお願い申し上げます」
お婆様は顔をクシャクシャにして喜んでいる様子だ。
「いやいや、なんのこれしき。わたくしも江戸市中の町人を対象とした大飢饉対策を考えてみてはどうか、と千次郎に言われておるのじゃ。せいぜい町年寄との折衝までと思うておったが、義兵衛さんが御奉行様との伝という話を聞いて、確かにその筋に図るのも良いと気付かされた。これで、義兵衛さんと同じ土俵で頑張れるかと思うと、楽しくてしょうがない」
「お婆様、義兵衛さんの邪魔にだけはならないように、気を付けてくだされ。特に、教えて頂いた大飢饉の具体的な神託の中身は、お婆様の身だけでなく義兵衛さんの身も危うくする話ですので、頼みますよ」
千次郎さんは、一応にせよ釘をさしてくれている。
義兵衛は、こう尋ねた。
「それでお婆様は、どのような働きを考えておられるのでしょう」
「最終的には、それぞれの町名主の所にお救い米の蔵を置き、商家の喜捨で運用することと、仕事がない者に人足仕事を斡旋することを考えておる。町名主は、それぞれの町に住み居る人を細かく見ることになるじゃろう。すると、同心の仕事の一部を補足するようなことになるので、最終的には御奉行様のお役にも立つという次第じゃ」
なるほど、天明の大飢饉以降にとられたであろう仕掛けを先行して行うのだな。
この工夫であれば、仕事がなく貧困で食べるにも窮した町民が米問屋を襲う心配も減ろうというものだ。
「お見事でございます。まずは、この日本橋と八丁堀から、ですか。米問屋の多い浅草蔵前も、しっかりと対応するようにしたほうがよさそうですね。商家への説得は難しそうに思いますが、その辺りはどうなされますか」
「おお、そこが難儀しておる。何か良い方法はないかな」
そこは考えていなかったのか。
この時代は町人文化も盛んな時期でもあり、この風潮に乗るというのが無難だろう。
「神社のお祭りで御寄附を張り出しておりましょう。あれと同じ方法で、飢饉時に御救米を提供するために各商家がどれだけ負担しているかを掲示するのです。それぞれの商家が、町の負担となる貧困な家の建て直しにどれだけ力を入れているかをあえて見せることで、町人は利益相応の施しをする商家に感謝の念を示し、いざと言う時に打ち壊しなどの仕打ちを受ける可能性を減じることができます。負担を渋る商家は町人の支持を失い、商売にも影響を受けることになると思います」
お婆様は義兵衛の説明に一応納得した風ではあるが、実際にどうするのかまでは話すことは無かった。
多分、実情と違う部分、利益相応に負担しているかを町人が判断できるか、という所を気にされたのだと思う。
そして、12日は過ぎ、いよいよ萬屋のことを書いた瓦版が出る日が来たのだ。
どうやら、北町奉行・曲淵景漸に知己を得ることが幕府とのとっかかりになりそうです。
そういった様子の中、萬屋では焜炉の販売初日を迎える、というのが次回のお話です。
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