幕府要人まとめ <C2147>
読者にとっては1回休憩に等しい回です。
しかし、筆者はこれを調べてまとめるのに、結構時間をかけてしまいました。
深川、登戸からの荷捌きも終わり一息入れると、お婆様からの政治情報特訓が始まった。
そして、この時点(安永7年時点)での幕府の構成人員の様子がだんだん判ってきた。
要人の概要は次の通りであった。
<将軍>
徳川家治 42歳:宝暦10年(1760年)24歳で先代家重の隠居に伴い将軍となる。
<大老> 先々代吉宗の時から空位。
<老中> 大名・朝廷にかかわる政務全般を司る役職で、25000石以上の譜代大名を任命。
配下に、勘定奉行・作事奉行・普請奉行・遠国奉行・町奉行などの奉行および小普請組支配・大番頭・大目付などがある。
松平武元 65歳:陸奥棚倉藩(61000石)藩主・右近将監
延享3年 (1746年)寺社奉行より主計頭を経て昇格。
前任者:美濃岩村藩主 松平乗賢 能登守
松平輝高 54歳:上野高崎藩(72000石)藩主・右京太夫
宝暦8年 (1758年)京都所司代より昇格。
前任者:駿河田中藩主 本田正珍 伯耆守
松平康福 60歳:石見浜田藩(50400石)藩主・周防守
宝暦12年(1762年)大阪城代より昇格。
前任者:出羽山形藩主 堀田正亮 相模守
板倉勝清 73歳:上野安中藩(30000石)藩主・佐渡守
明和4年 (1767年)側用人より昇格。
前任者:武蔵川越藩主 秋元凉朝 但馬守
阿部正允 63歳:武蔵忍藩(100000石)藩主・豊後守
明和6年 (1769年)京都所司代より昇格。
前任者:備後福山藩主 阿部正右 伊予守
田沼意次 60歳:遠江相良藩(37000石)藩主・主殿頭
明和6年 (1769年)側用人・侍従兼務のまま老中拝命。
前任者:下記辞任者による数年間の空席を埋める格好で就任。
出羽庄内藩主 酒井忠寄 左衛門尉 宝暦14年(1764年)老中辞任
遠江浜松藩主 井上正経 河内守 宝暦13年(1763年)老中辞任
<側用人> 将軍と老中の間の取持ちだが、将軍の意を挺するという形で権威がある。
水野忠友 48歳:駿河沼津藩(30000石)藩主・豊後守
安永6年 (1777年)若年寄りから側用人に任命。
前任者:遠江相良藩主 田沼意次 主殿頭
<若年寄> 旗本・御家人にかかわる政務全般を司る役職で、譜代大名から任命。
配下に書院番頭・小姓組番頭/組頭・百人組頭などや小普請奉行・目付・使番などがある。
酒井忠休 65歳:出羽松山藩(20000石)藩主・石見守
宝暦10年(1760年)若年寄りに任命。
前任者:近江小室藩主 小堀政峯 和泉守
酒井忠香 64歳:越前敦賀藩(11080石)藩主・飛騨守
明和2年 (1765年)寺社奉行から若年寄りに昇格。
前任者(時期重複):丹波園部藩主 小出英持 伊勢守
加納久堅 68歳:伊勢国八田藩(10000石)藩主・近江守
明和4年 (1767年)奏者番から若年寄りに昇格。
前任者(時期重複):陸奥桑折藩主 松平忠恒 摂津守
松平忠順 53歳:信濃上田藩(53000石)藩主・伊賀守
安永4年 (1775年)寺社奉行から若年寄りに昇格。
前任者:安房北条藩主 水野忠見 壱岐守
米倉昌晴 51歳:武蔵国金沢藩(12000石)藩主・丹後守
安永6年 (1777年)奏者番から若年寄りに昇格。
前任者:駿河沼津藩主 水野忠友 豊後守
<寺社奉行> 寺院・神社、寺社領取締りを行う。老中・若年寄りと同列で、将軍直下の扱いであり、三奉行でも筆頭で別格。
配下に、宗門改(人別帳)・天文方・碁所など、楽人・陰陽師のような者も管轄する役がある。
鳥居忠意 62歳:下野壬生藩(30000石)藩主・伊賀守
宝暦12年(1762年)寺社奉行・奏者番に再任
(宝暦11年徳川家重死去時に辞任)
土岐定経 51歳:上野沼田藩(35000石)藩主・美濃守
明和元年(1764年)奏者番より昇格。
前任者:出羽山形藩主 松平乗佑 和泉守
太田資愛 40歳:遠州掛川藩(50000石)藩主・備後守
安永4年 (1775年)奏者番兼務のまま寺社奉行拝命。
前任者:信濃上田藩主 松平忠順 伊賀守
戸田忠寛 40歳:下野宇都宮藩(80000石)藩主・因幡守
安永5年 (1776年)奏者番兼務のまま寺社奉行拝命。
前任者:常陸土浦藩主 土屋篤直 能登守
牧野惟成 51歳:丹後田辺藩(35000石)藩主・豊前守
安永6年 (1777年)
前任者:常陸笠間藩主 牧野貞永 越中守
<勘定奉行> 老中配下で主に旗本が就く。能力主義の組織体。
石谷清昌 64歳:下野国都賀郡(300石)旗本・備後守
宝暦9年 (1759年)佐渡奉行のまま兼務として勘定奉行拝命。
後、長崎奉行に任じられたが明和7年(1770年)兼務解除。
安永4年(1775年)田安徳川家の家老を兼務。
前任者:細田時敏 丹波守
安藤惟要 65歳:(800石)旗本・弾正少弼
宝暦11年(1761年)道中奉行と兼務して勘定奉行拝命。
前任者:小幡景利 山城守
桑原盛員 58歳:(500石)旗本・能登守
安永5年 (1776年)作事奉行より昇格。
前任者:新見正栄 加賀守
<町奉行> 老中配下で、南北が月替わりで担当。配下に与力・同心が居り、協力者として御用聞きや岡っ引きが居る。
牧野成賢 65歳:(2200石)旗本・大隅守
明和5年(1768年)勘定奉行から南町奉行へ転進。
前任者:土屋正方 越前守
曲淵景漸 54歳:(1650石)旗本・甲斐守
明和6年(1769年)大阪西町奉行から北町奉行へ転進。
前任者:依田政次 豊前守
お婆様からの、長~い幕府体制の話が一通り終わったが、結局幕府の中の要人は皆老人ということが良く判った。
そして、結局譜代大名がそれぞれの組織の長であり、勘定奉行か町奉行が旗本としては出世の頂点であることも理解できたのである。
どこにそんな知識があったのか、流石にお婆様は良く知ってらっしゃる。
『お殿様の猟官運動も、こりゃ大変だ』
今更のように知識不足にため息をつく俺・竹森貴広なのだった。
ただ、田沼意次・意知の件はある程度知っているし、老中松平定信の寛政の改革は覚えがある。
天明の飢饉の最中、旗本の佐野何某が若年寄りの田沼意知相手に殿中で刃傷に及んだという話は、テレビの時代劇で見た覚えがあるし、寛政の改革が実はロクでもなかったという話もどこかで見聞きした覚えがある。
この未来知識は、どうやって活かすべきなのだろうか。
とりあえず今は、天明の飢饉が始まるまでのことを考えて、そこまでの活動に絞るべきなのだろうなあ。
と思いながら、11日は暮れていったのだった。
勘定奉行で「大田正房」播磨守・任期:安永2年(1772年)~安永7年(1778年)を記載できませんでした。誕生年が確かに判る資料が出てこないのです。泣く泣く削っています。
次回は、4月12日に八百膳で主人・善四郎さんの段取り・腹積もりを聞く、です。
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