八百膳さんへの訴え <C2143>
江戸時代の八百善がどこにあったのかを探すのに意外に時間がかかりました。
江戸時代の地図で八百善がある場所と、浅草山谷という地名が合致しないための混乱でした。
経緯はちょこっと小説に書いています。
■安永7年(1778年)4月10日(太陽暦5月6日)午前 萬屋 → 深川 → 萬屋
萬屋の茶の間=作戦本部で行われた話し合いに沿って、各自が動き始めた。
まずは、義兵衛は深川の辰二郎さんの作業場を訪ねた。
そして問題が起きやすい=火事の原因となりやすい卓上焜炉の見本作成を相談した。
「柱3本にして、柱の下側に爪を出して火皿を支える格好にして、丸い針金の輪環で3本の柱の間隔を固定する構造です」
義兵衛は紙に絵を書いて説明をする。
火皿がむき出しになっている構造がミソなのだ。
「ははぁ、火皿に何かあると火の付いた木炭が転がり出るというところに問題があると、これなら直ぐに気づきますな。これに比べ今量産している焜炉は、火皿に何があろうと焜炉の底が壁になって支えていて、横倒しにでもなれば別ですが、火の付いた木炭が焜炉の外に飛び出すこともない。
この両方の焜炉を見せると、危ない焜炉は使わせる訳には行かないとなる訳ですか。判りやした。明日夕方の納品のときについでに何点か納めましょう。いや、大した手間もかかりませんよ。ところで、今日の窯入れは来られますかな」
多分、今日は対策で出歩いていて、窯入れを見に来ることはできそうにない。
義兵衛は事情を説明し断りを入れると、辰二郎さんはとても残念そうな顔をして見送ってくれた。
■安永7年(1778年)4月10日(太陽暦5月6日)午後 萬屋 → 八百膳
萬屋へ一旦戻り、次は千次郎さん、加登屋さんと一緒に浅草の新鳥越町にある八百膳へ、約2里(=8km)を歩く。
勿論手ぶらではなく、萬屋製・金程製の焜炉を各2個、角皿と丸皿を各2枚、小炭団を20個持参する。
当初の八百膳の店舗は浅草山谷にあったが、明暦3年(1657年)の大火で同じ道筋の浅草寄りとなる新鳥越町へ移ったのだ。
日本橋を通り、神田川に架かる浅草橋御門を通り、隅田川に沿って歩き、山谷掘にかかる新鳥越橋を渡り日本堤の東側になる。
かの有名な吉原は、もう少し千住大橋に行った所の山谷掘りを渡った向かいにある。
近くには浅草寺があり、この関係で、隅田川の近辺や、川が曲がりくねる千住を突切る大川橋(吾妻橋)から千住大橋の直線道の傍には多くの寺院があり、もともと八百屋だった八百膳は、この寺院へ仕出し弁当を出したことから名を上げ料亭としての立場を確立していった店なのだ。
そしてお武家様への仕出し膳を任されることも多く、江戸市中の料亭の中では格別の地位を築いているのだ。
ちなみに余談ではあるが、八百膳は文政5年(1822年)に『江戸流行料理通』という料理本を刊行し、江戸以降の食文化に大きな影響・足跡を残し、また黒船来航時の膳料理を日本代表として担当・提供するなど非常に大きい仕事をされている。
しかし残念なことに、大正12年(1923年)の関東大震災で浅草山谷町/新鳥越町(推定、現:台東区東浅草一丁目城北信用金庫東浅草支店近傍)にあった店が全焼し、その場所に再建されることはなかった。
さすがに八百膳の店舗は大きく、千坪に及ぶ広い敷地に、2階建ての客間を中心に複数の客間や建物が合体した迷路のような、どこが裏口・勝手口か判らない造りになっている。
そして、その上にまだ拡張されようと、造りかけの建物に繋がっているのだ。
客ではないので本来は勝手口に回るべきなのだが、どうも様子が判らない。
朝一で至急相談したい旨を知らせる手紙を丁稚に持たせて走らせたが、これではきちんと届けることができたのか判らない。
しかし、店のものをつかまえて要件を伝えると、しばらくして勝手口から丁稚が現れ、主人と打ち合わせする場所・座敷へ案内してくれた。
そしてしばし待つ。
「お待たせ致しました。この八百膳の主人・善四郎と申します。本日は相談したい件があるとの手紙を寄せていただいております。急なお話なので、時間もあまり取れておりませんが、向島や京橋で話題になっている卓上焜炉を江戸で唯一扱っている萬屋さんのたっての相談ということで、このように対応させて頂いております」
「手前が日本橋・具足町で炭問屋をしております千次郎です。わたしの横に控えておりますのが、今回の騒動の要となる小炭団を生産している村の旗本・椿井家家臣の細江義兵衛さんです。そして、その横が登戸村で料理屋を開いている加登屋さんです。萬屋は料理に素人なので、無理を言って手伝いに来てもらっております。お忙しいところ時間を取って頂き大変ありがとうございます。時間もないために、手前共が抱えている問題につき、手短にお話させて頂きます。萬屋では新しい料理道具としてこの卓上焜炉を売り出ししております」
持参した焜炉4個を善四郎さんの前にズズッと押し出す。
「現在、向島の武蔵屋、京橋の坂本などの料亭で、数日前から新しい料理が供されていることは、すでにご存知のことでしょう。しかし、この卓上焜炉は、仕出し料理の膳で温かい料理をお客に食べて頂きたい、という狙いで造られたものなのです。ただ、懸念しておりますのが、お客様の居るところで、しかも食べている最中に火が付いているという状態なのでございます。こういった状態があることについて、お上が火事の火種となることを恐れ一律禁止するのではないか、ということを懸念しております。どのようにすれば、一律禁止とならないようにできるのか、そこに頭を悩ませております。江戸市中で仕出し膳料理と言えば、何を置いても八百膳さんです。是非とも萬屋にお知恵をお貸し頂きたく、今回ご相談させて頂いた次第です」
4個の焜炉の中に小炭団を入れ、上に皿を載せた状態にした。
「このような状態で、仕出し膳の上に置きお届け先の所に広げます。仔細にご確認してください。今回持参した4個の焜炉とお皿については、労を取って頂くお代として八百膳さんにそっくり差し上げますので、存分に見て頂ければと思います」
善四郎さんは卓上焜炉を手に取り、覗き込んだり傾けたり、小炭団が乗った火皿を取り出したりしている。
そして、徐にゆっくりと話す。
「これならば、木炭が爆ぜても火が飛び散る心配もない。仕出し膳にこの卓上焜炉を使っても何の問題もないのではないのかな。お上も禁止なされないのではないかと思うがどうかな」
こう切り返されると、千次郎さんは義兵衛にバトンタッチするしかない。
「善四郎さん、おっしゃる通りです。この焜炉なら、火事に対する備えを考え抜いております。ほら、よくご覧ください。素焼きの金程製には『秋葉大権現』、豪華な配膳の上にも似合う萬屋製には愛宕神社の『火産霊尊』。有難いご利益もあり、これでもう完璧です」
「あっはっはっはっはぁ~。そんな話ではありますまい」
「はい、この焜炉ならと申しました。この焜炉、現金掛値なしとして1個300文での販売を致します。ところが、この卓上焜炉は、上に乗せた角皿を熱するというところだけ取り出すと、似たようなものならもっと安く作ることができるのです。例えば、愛宕神社から許諾して頂いた『火産霊尊』の刻み文字は、1個作る毎に30文を神社に納めていますが、そういったところは安価な焜炉には無用です。笑い話に聞こえるかも知れませんが、火の用心については構造も工夫を重ね、更にお金を積んで神頼みまでしています。そこまで考え抜いて対策しているので、金程製や萬屋製のものは、まあ安全と思っています。本当に、これは笑い話どころではありませんよ。
小炭団を燃やすだけの焜炉という所にだけ着目すると、実際に火皿をむき出しにした安い焜炉を作ることもできます。そうですねぇ、30文、いや20文位でも作れてしまいます。この危ない焜炉がどのようなものかを判ってもらうために、見本を今用意しようとしています。数日のうちにはお見せできると思いますよ。
それで、問題になるのが、こういった危ない焜炉が仕出し用にも使われて、取り扱い不備から火事の火種となってしまい、結果として仕出し膳に一律卓上焜炉を使ってはならない、という御沙汰が下されることなのです。
なので、一律禁止という事態を避け、かつ『火事の原因となりやすい焜炉は仕出しに使ってはならない』という御沙汰にするために、どこへどう諮れば良いのかというご相談なのです」
義兵衛がここまで、ぶっちゃけて話をしたことはなかった。
果たして、善四郎さんは腕組みをして唸り出した。
目まぐるしく考えていることがこちらまで伝わってくる。
やはり義兵衛さんが出張らないと納まっていかないのです。
次回は、なぜだか焜炉料理を披露することになります。
最初に八百善があった場所は、すぐ近くに吉原がありました。いろいろと面白いことが実際にあったのではと思いました。
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