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お婆様からは逃げの一手 <C2139>

4月9日という渦中の萬屋ですが、義兵衛が帳簿の勉強をしているところにお婆様が現れます。

■安永7年(1778年)4月9日(太陽暦5月5日) 萬屋


 向島や京橋で繰り広げられる新しい料理を巡る戦い、瓦版版元の大儲けの状況は、逐一萬屋の茶の間に届けられ、そこに詰めている千次郎さんや忠吉さんが分析をしている。

 そして、在庫をどう割り付けていくか、値段はどの程度に設定するのがいいのか、これからどの程度売れるものなのかを話している。

 昨日までは『とは言っても実際に焜炉が足りないのだよなぁ』で終わっていたのが、13日になれば1000個の深川製焜炉が魔法のように登場するのだ。

 なので、今はそれまでどうつなぐのかに熱中している。


 その傍ら、義兵衛は茶の間の一角で既に〆ている萬屋安永6年の帳面類一式を広げ、その読み取りを行っている。

 全ての元になる大福帳と、それに紐付く出納帳の関係を調べているのだ。

 萬屋の大福帳は、項番(日付と追番)・顧客名(覚)・品目数量・金額・済欄・備考欄で構成されており、覚えと備考欄は独特の符丁が付いている。

 どのような些細ささいなことでも、金銭・商品にかかわる実物・約束は漏らさずこの大福帳に書き記す。

 そこから、必要な情報を別に起こした帳面に転記し管理していく。

 この帳面には、買帳・売帳・現金出納帳・荷台帳・注文帳というものがあり、さらに発行した証文や受け取った証文を別枠で管理している。

 義兵衛は5日の午後に最初の手ほどきを忠吉さんから受けたのだが、こういった帳面類を3日間も読み解き、眺め続けてやっと全体としてどのような動きになっているのかを理解し始めたのだ。

 火事になると、主人は何をおいても大福帳を井戸に放り込んだ、という話が伝わっているが、この大福帳さえあればそれ以外の帳面は起こすことができる。


「ここに10両にもなる大きな取引があるだろう。そして、そっちには8文の取引が書かれている。金額が違うだけで、帳面上ではやっていることは何も変わらないのだ。世間の人は、やれ10両(=100万円)は大金だから、8文(=200円)は小銭だから、と金額の大小で扱いを変えるが、商家の帳面で金額の大小で扱いを変えるのは大きな弊害になる。なので、10両の顧客も8文の顧客も等しく扱わないといけない」


 忠吉さんは、帳面を見ながら唸っている義兵衛に極意を指導する。


「なので、商家はケチだとか厳しいとか言われるが、取引の件数が増えるほど、こういった扱いにせざるを得ないのだ」


 まあ、商家の道理ではあるが、取引で冷たく見えるのには1万円も1円も同じ重みという帳面処理に端を発していることに改めて気づかされた。

 銀行は1円過不足があっても徹夜で探し出すという話があるが、処理に例外を作るとかえって手間がかかり動かなくなる仕組みなのだからしょうがない。

 だが、あえて言うならそれは銀行の勝手なのであって、利用者は関係ないハズなのだ。


 昼前になると、本宅からお婆様が店の様子を見に来た。

 お婆様が店に入ってくると、主人から丁稚までピンと背筋を糺し挨拶をする。

 どう見ても、お婆様がここの実質的な主人に見えてしまう。


「義兵衛様、昨日はこの萬屋のため、新しい卓上焜炉の手配に奔走頂き誠にありがとうございました。うちのボンクラ達が遅々として手配できなかったものを鮮やかに解決して頂き、わたくしは感謝の念に堪えません。この萬屋は義兵衛様にお返しできないほどの恩義をかかえてしまっております。店の中を見ても、主人と番頭がこの先の萬屋をどう進めようかと熱心に討議するなど、少し前の店ではあり得ぬことが起きているのがその査証でございましょう。つきましては」


 お婆様にその先を言わせまいとして、義兵衛は声をかぶせた。


「いえいえ、お婆様。そのようなことはおっしゃられずとも良いのです。貧困に喘ぐ我が里に友好的な商家があるというだけで、里の人達はどれだけ心強く感じるのか、それを思うだけで僕は嬉しく感じます。深川製の焜炉の件は、たまたま上手くいっただけですから、誰の手柄でもありません。強いて言えば、秋葉神社とのつてを作る切っ掛けとなった向島の料亭・大七さんのお手柄ですが、苦情を訴えた相手が最大の貢献者なんて、全くタチの悪い冗談ですよ」


 とりあえず、お婆様の口を止めることで、また持ち出そうとしたであろうお華さんの件を押さえ込み、余計な傷口が広がってしまうのを防ぐ。

 ちらっと忠吉さんを見ると、青い顔をして俯いているし、千次郎さんも心なしか怯えている。

 義兵衛さんがいない所でどんな目にあっていたのか、したくもない想像をしてしまう。


「それでも、この店の変わり様は義兵衛さんの功績です。昔、父・七蔵も番頭や丁稚をつかまえて大声で未来を議論していたものです。懐かしい風景がまたここで見れるとは、わたくしは幸せものです」


 これ以上ここにいては、義兵衛がいることで、お婆様が抑えこんでいるものが巨大になり過ぎてしまう可能性が高いと判断した俺は、義兵衛に深川へ逃げるよう指図した。


「折角の御話の途中で申し訳ございませんが、深川の辰二郎さんのところで作っている焜炉に、製造時期が判る印を入れることや注意点を伝える必要があることを思い出しましたので、これから出かけていきます。道など不案内なこともあり、忠吉さんをお借りしていってよろしいでしょうか」


 とりあえず、一番被害に遭うであろう忠吉さんは救い出したが、あとは千次郎さんに任せるしかない。

 結局『母親は息子に甘い』という一般論にすがるしかないのだ。

 二人揃って店を出た瞬間、忠吉さんは滝のように流れ出た汗を手ぬぐいで拭いた。


「義兵衛さん、ありがとうございます。1日に義兵衛さんがお武家様に取り立てられたと判って以降、お婆様は優しいのと厳しいのとが極端に変わるので実は対応が難しいのです。あんなに可愛がっているお華さんも、何回か泣かされていました。はっきり言って、今意見できるのは義兵衛さんだけです。なんとかなりませんか」


「いえいえ、それも含めてお婆様は絶対判って演技していますよ。僕に丁重に接して隙を窺っているのを感じます。里の近くの大丸村に居る芦川家のお婆さんが『中野島村の七蔵の娘・まどかは、昔からなんでも欲しいものは結局手に入れる名人じゃった。いつも無邪気な振りをしてしっかり一番おいしいところを持っていきよった。それでいて憎まれないのは役者じゃからよ。付き合うなら用心なさることじゃ』と教えてくれました。なので、とても用心しているのです。しかし、お華さんまでが泣かされているというのは、本当なら申し訳ないですね。ちょっと方法を考えてみましょう」


 そう言っては見たもの、元の世界でモテていた訳でもなく、どちらかと言うとボッチだったほうなのだ。

 恋愛経験やコミュニケーションに長けていたほうではないし、むしろ面倒なことと避けていた側の人間なのだ。

 技術チートとは違い、良い方法がそうポンポン出るはずがない。

 こと、対人関係という面で、人間に大した進歩はないのだ。

 義兵衛はもう大丸村芦川のお婆さんに対応を相談したい気になっていた。

 だが、あのお婆さんは村営スピーカーに違いなく、内緒で相談しても、本人には『知れ渡っていることは内諸』ぐらいの意味でしかない。

 そんな話をしながら、考えながら歩く内に深川の辰二郎さんの作業場に着いた。


「こんにちは。義兵衛です。今日は、状況の確認とご相談があって参りました」


お婆様にも困ったものです。次回は、深川の辰二郎さんの作業場での会話が主体となります。

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