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『どじょう鍋』が出た日 <C2138>

4月8日、それは武蔵屋の「どじょう鍋」売り出し日でした。

■安永7年(1778年)4月8日(太陽暦5月4日) 向島


 武蔵屋の新料理『どじょう鍋』は、瓦版による告知が先行した稀有な事例となった。

 瓦版を売る読売師の謡いが向島に響いたとき、この日の昼から料理を出そうとしていた武蔵屋はまだ店を開ける準備をする前だったのだ。


 萬屋からの提案を受け、ご膳のさいの一つに湯豆腐があるという今までの出し方について改め、京橋・坂本のやり方に習う。

 まず『湯豆腐』か『どじょう鍋』かを選んでもらい、それに御飯一膳と汁を一つ付ける。

 値段は『湯豆腐』20文(=500円)、『どじょう鍋』100文(=2500円)にし、夜になれば御飯以外に別料金で酒も2合までは付ける。

 とりあえず『湯豆腐』は300膳、『どじょう鍋』は1500膳まで限定して出すこととして、予定の数量が出たら終わりとすることを事前に告知する方針にする。

 店の中は席を狭めて180席に増やし、仕出し・宴席は当面一切断る。

 宴席を予約していた客については、別な料亭を紹介すると同時に、『どじょう鍋』の優先無償提供の券を出してお詫びをする。

 『元祖・湯豆腐』『どじょう鍋・始めました』『食数限定・売切れ御免』の3本ののぼりをこの日の朝までに準備した。


 向島の料亭の人達は、つい先日4月2日の瓦版が引き起こしたこの街の様相を忘れていなかった。

 その瓦版売りの謡い文句は、料亭の、特に板場の人間を表に引っ張り出したのだ。


 「武蔵屋で卓上焜炉を使った本邦初の新しい料理がお目見えするぞぉ~。この暑くなる盛りにも精がつく『どじょう鍋』が、本日4月8日から武蔵屋が提供し始めますぞぉ~。この珍しい料理は1日1500膳と食数限定、つまり早いもの勝ちになっておりますぞぉ~。そして、お値段は少々張りますが100文からのご提供ですぞぉ~」


 二人一組で250枚の瓦版を抱えた読売師が最初の1回を謡い終わると同時に、道の両側に立っている料亭からワラワラと人が溢れ出てきて一枚4文の瓦版をわれ先にと買い求める。

 瓦版の元締めは、これで読売師の足が止まることを想定しており、向島の北側と南側、それぞれに読売師を配置していた。

 もみくちゃにされながら、謡いを続けながら瓦版を売り続けると、お互いの読売師が丁度真ん中でぶつかる頃には瓦版全部、合わせて500枚もあった瓦版が昼前には全部売り切れていた。

 読売師は向島でまだ売れるとの判断から、版元へ追加の瓦版を取りに向った。

 その頃になって、やっと武蔵屋が幟旗を立て店を開け始めた。


 たちまち行列ができるが、流石に増やした180席は伊達だてではなく、店を開けた時点で並んでいた人は遅滞なく中に吸い込まれていく。

 片付いたかと思う間もなく、店の外まで溢れてくる割り下の醤油の煮詰める香りに、通りを行く人が足を留める。

 そう『しゃぶしゃぶ』とは違い、この香りが人を寄せるのだ。

 その結果、とうとう店に入りきれない人が出始め、外に行列が出来始めたのだった。


 この事態に「湯豆腐」が出せるようになったことに安堵していた武蔵屋以外の向島の料亭は凍りついた。

 そして、武蔵屋が出している「どじょう鍋」を実際に食べて、その味にも大いに驚かされたのだった。


「これは、湯豆腐どころの話ではないな。京橋の坂本で出されている『しゃぶしゃぶ』という料理を食べてみたか。このような料理が卓上焜炉で出すことができる、ということは、工夫さえすればもっといろいろな料理を出せるということに違いない」


 卓上焜炉を手にし、武蔵屋や坂本の出す手の込んだ料理を口にした向島の板場の人は口々に言い合った。

 そして、こういった話を聞いた、まだ焜炉を入手できていない料亭の板長や女将は焦った。

 実際に何も動いていなかった訳ではない。

 先に入手した6箇所の料亭に遅れて、昨日7日にも萬屋詣でをしたが、条件が折り合わず断念していたのだ。


 江戸市中で唯一卓上焜炉を扱っている萬屋が、京橋の坂本向けに用意した焜炉であることを盾に、一組48個を現金12両という値段でしか売らない、という話が仲間内で広がっているのだ。

 焜炉と皿を合わせて1000文(=2.5万円)とは流石に高いと思う。

 実際に武蔵屋が購入した金額について、直接関係した女将には聞けないが、その周囲の関係者に聞くと今の半額だったようだ。

 しかし、実際に先行して入手に動いた大七や平岩が、そしてそれに続く6箇所の料亭が12両を支払っている。

 このことから、もう値下げされることはないと見える。

 更に、坂本向け準備品を渡すことから、萬屋はそれぞれの料亭に1組しか売らないと宣言している噂もある。

 こういったことを全部飲んでも、今は萬屋に頼るしかないのだ。


「湯豆腐であれば、料理としてどうということもなかったが、『しゃぶしゃぶ』はまだしも『どじょう鍋』は見過ごすことはできん。せめて色々と調理を試すための卓上焜炉・小炭団がないと、板場として決定的に見劣りする差がついてしまう」


 板長にそこまで言われてしまうと、どうしようもなくなる。

 そうなってくると、まだ焜炉を入手できていない料亭の女将にも知恵者がおり、買えずに困っている複数の料亭が共同で48個一組を買い、分担金に応じてこれを分ける方法を考え出した。

 この方法であれば、手持ちの現金が少ない料亭でも、調理の研究用にせめて数個の焜炉は入手できる。


 その日の夕方、26軒もの料亭で共同購入するため、代表となった料亭4箇所の女将が萬屋に駆け込んだ。

 そして、萬屋製焜炉2組、金程製焜炉2組の96個と、1万個の小炭団を合わせ、計金68両もの大金をはたいて向島へ凱旋してきたのだった。

 こうして、向島・武蔵屋の『どじょう鍋』売り出し日は、多くの料亭に危機感を強いる結果となって現れたのだ。



 実はこの時点で、萬屋製焜炉5組、金程製焜炉2組が残されており、坂本から注文を受けている3組は容易に納めることができるのだが、そこは千次郎さんが坂本の女将と示し合わせて先送りしていた。


「坂本の女将、依頼されている焜炉3組は、出そうと思えば納めることはできるのだが、これを入れてしまうと物が足りないので高値にせざるを得ない、という理由が無くなってしまう。実際に坂本が料理の仕出しを始めるときには希望の数量を融通できるはずなので、注文はこのままにしておいて良いかな」


「萬屋さん、こちらも京橋の他の料亭で焜炉を買うことの睨みはできるわ、首を縦に振るだけでお詫び料と称して銀10匁(=2.5万円)が降って来るわで、随分と美味しい思いをしておりますよ。本に、いいこと尽くめなのです。なので、今焦って全部納めてもらう必要はありません。そのままにしておいて下さいな。なんならば、もう少し注文の量を増やして5組位にしておきましょうか」


 真相は、とんだキツネとタヌキの会話の通りであるが、13日の瓦版を見て、他の地区の料亭が一斉に押し寄せるに違いない。

 その時には、坂本へも注文の3組を納め、価格を再設定しておく必要があるだろう。

 あと4日の間に、少しでも多くの卓上焜炉を確保しておく必要があるのだ。


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13日時点での手持ち予想

 萬屋製: 839個=17組と23個

 金程製: 512個=10組と32個

 深川製:1000個=20組と40個



12両(=120万円)+小炭団代を単独で出せる料亭は先行して卓上焜炉を入手していましたが、そんなに大金を溜め込んでいない料亭は共同購入という手段を編み出して道具を手に入れました。

ここから多くの料亭の研究が始まります。

次回は、翌日の萬屋・午前中の風景です。

感想・コメント・アドバイスなどお寄せください。また、ブックマークや評価は大歓迎です。

よろしくお願いします。


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