焜炉を求めた2軒目の料亭 <C2135>
■安永7年(1778年)4月5日(太陽暦5月1日)午前中の萬屋
この日、萬屋の朝は多少せわしなく始まった。
武蔵屋の女将と板長は、小炭団3000個と『どじょう鍋』に使う割り下を入れた甕、丸皿200枚を大事そうにかかえ、向島へ戻っていった。
あとで小僧が金20両、内訳は小炭団6両と割下等の享受料4両それに丸皿分10両、を届けにくるそうだ。
加登屋さんは『どじょう鍋』完成版の味を確認している。
間もなく、卓上焜炉を作っているところから製品が75個届き、全部で87個になったが、これでは心細いものだ。
そして大番頭の忠吉さんは、瓦版の版元にご足労願いたい旨の伝言をして丁稚を走らせる。
間もなく、瓦版の版元がふらふらしながらやって来た。
「ちわーっ、お呼びですか。こっちはもう幾日徹夜を重ねたか判らん状態ですよ。知ってて呼び出すからには、それ相応のものが必要ですよ。忠吉さん、判ってますよね~」
半分やけくそ気味なのだ。
作ったら作った分だけ刷る端から売れていく瓦版がある版元というのも珍しかろう。
最近にない金鉱脈の上に乗っているはずの版元は、そうと気づかない程体力的に疲れ果てていたのだ。
「まあ、こちらを一口召し上がってください。暖かいうちにどうぞ。精がつく料理ですよ」
加登屋さんが、卓上焜炉の『どじょう鍋』を勧める。
そしてこれを口にした途端、版元の顔がシャキッと変わった。
『「湯豆腐」「しゃぶしゃぶ」に続く新しいこの卓上焜炉料理は、瓦版にすれば絶対売れる。しかも、先の2つの料理を伝授した萬屋にあるということは、まだどこでも作られたことのない料理のはずで、どの版元も掴んでいないものなのだ。しかも酒が飲みたくなるほど美味い。この料理は絶対流行る。つまり、瓦版にすれは間違いなく売れる』
そう、ここに新しい金鉱脈があることに気づいたのだ。
「この料理は一体何ですか。それで、どの料亭に売り込もうとしているのですか。確か売り込みは武蔵屋と坂本だけ、と言っていましたよね。三軒目を作る理由は何ですか」
聞きたいであろうことが版元の口からポンポン溢れてくる。
版元が聞きたいことは、つまりは市中の江戸っ子が皆聞きたいことなのだ。
千次郎さんが、昨夕からの顛末を語り、瓦版にしやすい話の筋を示唆する。
『同業料亭が湯豆腐を真似して出したことに困った女将が、板長を連れて萬屋へ相談しにきた。萬屋に応援しに来ている腕の立つ料理人・加登屋が板丁と一緒に起死回生の料理・どじょう鍋を編み出した』
それはそれで、題材を上手に料理すれば一遍の泣かせる物語になりそうだ。
ただ、ここには義兵衛は登場させないことや、萬屋が一方的に料理を教えたことは伏せるよう厳重にお願いをする。
「これはまた凄い特級のネタをありがとうございます。武蔵屋には今日の午後にでも行って口裏合わせしましょう。ところで、この見返りにこちらは何をすればいいのでしょうかね」
「実は、萬屋に卓上焜炉が充分なく、3番目に予定していた瓦版を4番目に下げて、間に『どじょう鍋』を挟んでほしいのです。萬屋が載った瓦版は、そうですね、13日位に出すという段取りにできませんかね」
版元は、坂本の『しゃぶしゃぶ』に重版1000枚をかけ、武蔵屋の『湯豆腐』にも再々々版500枚かけている。
売れなくなるまで、売り残りが一定数量出るまで、隈なく歩いて売り捲くるのがこの商売なのだ。
「湯豆腐の瓦版が枯れてから『どじょう鍋』に差し替えれば面白い話になりますね。すると、この話を明日中に仕上げて8日に売り出すのが良いかと思います。萬屋さんの番をその後ろに持ってくれば、丁度13日位になります」
版元の言葉に笑みを返す千次郎さんだが、その後ろで控えている忠吉さんはほっとしている。
版元を送り出した後、次の段取りが待っている。
千次郎さんは忠吉さんに早速指示を出す。
「昨夜女将と話をしたら、この卓上焜炉は間違いなく大当たりで、どの料亭も欲しがるのは間違いない、とのことだ。今3000個作ってもらいたいと言っているが、これを倍の6000個にして、生産を毎日100個にして貰うよう頼んでこい。それから、愛宕神社には1000個分の前金として8両納めているが、生産が2000個増え3000個になったとして15両納めてこい。その折、神社の許可を取らずに似非の印を打つところがあるやも知れぬので、ご注意願いたいと必ず念を押しておいてくれ」
しかし、卓上焜炉がまだ250個程度しか売れていないのに、小炭団の減り具合には恐ろしいものがある。
ここ4日で15000個以上出ているのだ。
つまり、焜炉1個を4日で60回転もさせている。
設計耐用回数は300回~500回位と見ていたが、独立した火皿にする工夫で寿命は延びているに違いない。
だが、これで耐用回数が2倍になっているとしても60日もすれば半分位は壊れてもおかしくない使われ方だ。
焜炉の寿命もしかりだが、1日1~2回転で1万個使われるという想定がどんどん崩れているのが見えてきた。
もし、4倍の1000個の焜炉が今の調子で稼働すると、それだけで15000個の小炭団を毎日消費するのだ。
金程村へ状況は毎日手紙で知らせてはいるが、意識されているのだろうか。
『助太郎、最低でも今の2倍は作り出す必要がありそうだ。まさか士分扱いになったと言われて浮かれているようなことはあるまいが、ここではあまりにも急激に物事が動き過ぎるので、出来るだけ多くのものを作ることに尽力してほしい』
祈るような気持ちである。
そして、昼過ぎに焜炉と小炭団を求める2軒目の料亭が現れた。
「武蔵屋さんと大七さんで出している卓上焜炉と角皿を、こちらにも是非売ってもらいたい」
向島の料亭・平岩さんのところの主人と女将で萬屋の門をくぐってきた。
「大七さんから事情を聞いて、坂本さんにはすでにお詫び料も払い、了解をもらっている。昨日の大七さんと同じ値で、いやそれより多少高くても構わない。小炭団も大七さんの2倍の2000個必要だ。是非売ってくれ」
事情を聞くと、遠方から来た客が『湯豆腐』が出せないと判るとがっかりした顔で逃げていくのだそうだ。
「このせいで店の者の、板場の人間の士気がガタ落ちになっている。『ただただ、客の目の前で湯気が上がるだけの豆腐に俺たちの料理が負けているのが悔しい』と泣くのだ。せめて同じ土俵に上がらないと、そもそも勝負にならん。こんな厳しいことは初めてだ」
主人、女将が揃って頭を下げてくる。
義兵衛は、金程村の焜炉を48個使ってはどうかと千次郎さんに提案した。
これなら、色々と言い訳できる余地ができる。
後知恵になるが、昨日の大七さんの所もこうすればまだよかったのかも知れない。
「判りましたが、肝心の萬屋謹製の焜炉が足りておりません。しかし、同じようなことができる金程村謹製の焜炉ならあります。こちらでよければ、大七さんより若干お安く提供できますよ。実は、金程村制の卓上焜炉が本家筋の製品で、火伏の神様である秋葉神社から頂いた御印が押されています。萬屋はそれを真似て、愛宕神社の火伏せの御印を頂いている次第です。いかがですか」
平岩さんの主人と女将はそれを聞いて飛び上がらんばかりに嬉しがった。
向島では、火伏の神と言えば秋葉権現で、しかも金程村謹製の焜炉がいかにも素朴なだけにありがたく見える、とのことなのだ。
結局、金程焜炉48個、角皿48枚、小炭団2000個の対価として、全部で16両を差し出し、意気揚々と帰っていった。
そして萬屋はいつもの様相・喧騒さを取り戻したが、その日の午後はそれでも後から思えば嵐の前の静けさのような、翻弄される前の最後の休日のようなほんのひと時だったのだ。
すみません。「湯葉鍋」は難しくて「どじょう鍋」になりました。実史では、この時点では、まだ「どじょう鍋」「柳川」はできていなかったのです。濃い口醤油がまだなかったから、というのが理由のようですが、そこは少しお見逃しください。
次回は、「大七」以外に焜炉を買いにきた料亭です。
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