武蔵屋女将からの苦情 <C2134>
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さて、武蔵屋がムッとするのも無理ありません。というところから話しが始まります。
■安永7年(1778年)4月4日(太陽暦4月30日) 萬屋
<坂本関係>
この日、京橋の料亭・坂本周辺が開店前に新しい料理を味わうため、大勢の江戸っ子が押し寄せた。
わずか70席の料亭は、開店後に膨れ上がる群集を捌くのに大わらわとなってしまっていた。
昼過ぎになると、瓦版を手にした江戸っ子もちらほら現れ、とても捌ききれない行列が出来上がっている。
加登屋さんは、一度萬屋に戻ってきたが、それはポン酢と小炭団追加分1000個を取りに来ただけで、禄に話もできないまま坂本へ取って返した。
そして、坂本の営業は街の木戸が閉じる直前まで続けられ、閉まるギリギリに加登屋さんが金3両を手に戻ってきた。
話に聞くと、今日は膳の体は取らず、値段を下げて御飯と汁に「しゃぶしゃぶ」の3点を供するように絞りこみをし「しゃぶしゃぶ」の料理紹介に徹したそうだ。
この結果、最低でも20回転はしていたそうで、明日は朝一に小炭団を2000個の持ちこみ要請があった。
<武蔵屋関係>
その日の夕方、向島の武蔵屋の女将が萬屋に怒鳴り込んできた。
「萬屋さん、卓上焜炉を向かいの大七さんにお売りになるとは酷いではないですか。大七さんも家が出している「湯豆腐」をそのまま出すようになって、家からあぶれた客がそちらに流れてしまうのですよ。湯豆腐を紹介するのは武蔵屋だけ、という話ではなかったのですか」
まずはそちらの苦情ですか。
「武蔵屋さん。湯豆腐をお教えしたのは、武蔵屋さんだけですよ。昨日、卓上焜炉を是非にと求められてきて、48個を1組として皿を付け14両でお買上げ頂いております。こちらは、3組揃ってということで坂本様向けに準備していたものですが、ご予約頂いていた坂本さんに了解を貰って売っております。なので、問題はないと思っておりますよ」
千次郎さんが淡々と答えると、女将は更に怒気の水準を上げ言い募った。
「その坂本さんですよ。どうして『しゃぶしゃぶ』を武蔵屋に紹介頂けなかったのですか。坂本さんと比べると『湯豆腐』は随分見劣りする料理じゃないですか。出汁に豆腐を漬けて煮立てるだけではすぐ他の料亭で真似されるだけですよ。全く困ったものです。こうなった責任は萬屋さんにもあるのじゃないですか。なんとかしてくださいよ」
料理の話になると、千次郎さんは答えに窮してしまった。
そこで、止む無く義兵衛が話し始める。
「判りました。考えていた新しい料理をお教えしますので、武蔵屋さんの板長を呼んできてください。あと、萬屋で賄いを作っている丁稚をお借りしますよ。
板長さんが来るまでに、ある程度の下準備しますので手伝いしてください」
女将に武蔵屋の板長を呼ぶ了解を得て、萬屋の丁稚が飛び出して行った。
「あまり時間がないので、できるだけ早く呼んできてくださいよ」
丁稚の背中に向けて義兵衛さんは声をかけ、そして、なれない手つきで料理の準備を始めた。
・清酒を満たした小桶に泥鰌を入れ、飛び跳ねないように蓋をする。
泥鰌は2日前に加登屋さんに依頼して準備しておいてもらったもので、まだピンピンしている。
・出汁と醤油とミリンを3対1対1で混ぜ、砂糖を加えて割り下を作る。
小さじに少し取り、少し薄めになっているが、味を確かめる。
・出汁を鍋に張り、そこへ味噌を溶いていれ、具のない味噌汁を作る。
モタモタとここまで作っている間に、武蔵の板長が飛び込んできた。
「申し訳ないですが、ここから後の調理は板長さんにお手伝いしてもらって良いですか」
・煮立った味噌汁を中火にして先の泥鰌と、若干の生姜の薄切りを入れ、4分の1刻(=30分)ほど煮る。
沸騰しないよう、後半は弱火にする。
・焜炉用の丸皿に煮上がった泥鰌を敷き、先に作った割り下をたっぷり入れ上に小切りした葱を載せる。
「ここまでが、下準備です。割り下の基本的な配合は後でお教えします。基本的な味はこの通りですが、江戸っ子の好みに合わせて味噌汁や割り下の味は変化をつけても良いと考えます」
煮込む時間は足りるかなと思いながら、丸皿を焜炉に載せ、小炭団に火をつける。
しばらく様子を見ていたが、小炭団がそろそろ終わるかと思う頃にやっと思っていた状態になってきた。
「少し乗せる泥鰌が多すぎたようで、出来上がりが小炭団の消えるギリギリになってしまいました。今は、煮た泥鰌を熱いまま丸皿に載せたので、なんとか間に合いましたが、前もって煮ておいて冷えた状態だともう少し時間がかかります。なので、入れる泥鰌の量は予め決めておいてください。また、やはり熱する時間が不足するという場合は、小炭団を2個積み上げて火を付けるという方法もあります。いずれにせよ、このあたりの見極めも板長がしておいてください。
ちなみにこの料理は『どじょう鍋』と言い、湯豆腐のように京都にもあったものとは違い、本邦初の料理です。濃い味付けになりますので、酒のつまみには持ってこいです」
平気な顔でこう説明してはいるが、実際に作るのは初めてなのだ。
焜炉の火が下火になり、料理の名前を言っている最中に、加登屋さんが帰ってきた。
「おや、これは何の料理ですかな。随分醤油の濃い匂いが漂っておりますが。あれ、これは武蔵屋の板長ではありませんか。どうなされました」
加登屋さんは入ってくるなり、声を上げた。
千次郎さんが小声でここまでの経緯を説明している。
「皆さん、暖かいうちに食べてみてください」
そう声をかけると、皆は『どじょう鍋』へ箸を伸ばし、一匹ずつ掴んだ。
「おっ、これはなかなか美味い」
板長と千次郎さん、忠吉さんが同時に声を上げる。
「こんな料理ができるなんて思いつかなかったのが悔しいですぞ」
加登屋さんが褒めてくれる。
「いかがでしょう。この『どじょう鍋』なら『しゃぶしゃぶ』に引けは取りません。この料理を紹介したことで、お怒りをお納めください。そして、萬屋との取引は今まで通りということでよろしくお願いします」
女将は料理を口にして、すっかり柔和な表情になっている。
美味しいものは、それだけで人を幸せにするのだ。
「萬屋さん、ありがとうございます。筋違いのお話とは頭では判っていながら、ご無理を言いました。しかし、本当に助かります。板長、これをお客様にきちんと出せるように、萬屋さんに充分教わっておくのですよ」
丁寧なお礼に、義兵衛はつい口を滑らせた。
「実は、この『どじょう鍋』には発展させた料理があります。この上から溶き卵をかけ卵閉じにすると一段と高級な料理に化けます。料理というのは不思議なもので、奥が深いのです。素材を生かした料理の『しゃぶしゃぶ』に対して、うんと手を掛けた対極の料理として、この『どじょう鍋』があります。もう木戸も閉まっていることでしょうから、これから板長さんと加登屋さんで研究されてはいかがでしょう」
この発言に皆驚いていたが、千次郎さんがこう締めくくった。
「どうやら酒のつまみは切れる心配がなさそうなので、女将、ちょっと卓上焜炉を使った料亭の目論見について語っていきませんかい。どうせ、朝には小炭団が2000個ほど追加でお入りでございましょう」
大人は酒が入ると口が軽くなる。
武蔵屋女将のガス抜きには丁度良い機会になるだろう。
「湯葉鍋」ではなく、「どじょう鍋」を紹介してしまいました。これなら「大七」さんは簡単に真似できません。次回はこのフォローと、前回の余波の話です。
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