仕官した夜のお婆様 <C2132>
萬屋で、義兵衛が仕官されたお祝いが行われます。
愛宕山傍の椿井家屋敷を出て、日本橋・具足町の萬屋に向う。
萬屋に帰りつくと、大番頭の忠吉さんが駆け寄ってきた。
3人を店奥の茶の間に誘うと、版元からの連絡があったことを、まず報告してきた。
・向島の料亭武蔵屋から「暖かい湯豆腐」の膳料理が出たことの瓦版が出来上がった。
武蔵屋では本日4月1日から湯豆腐を出しているが、瓦版の発行が遅れてしまった。
内容は武蔵屋からすでに了解を貰っており、本日夕方までに萬屋から内容の異議申し立てがない限り、明日4月2日から市中にて売り出す。
・京橋の料亭坂本については、記事を渡して確認してもらっている段階だが、いつから店で出すのかが決まっていない。
明後日の4月3日に「しゃぶしゃぶ」料理を出すという予定で記事を書いており、できれば明日中に版木彫りに入りたい。
ただ、料理の具材や付け汁を変に工夫しようとしている様なので、萬屋に協力している加登屋さんからなんとか言ってもらいたい。
・萬屋さんの記事については、もう一度話を聞きたい。
特に、加登屋さん、義兵衛さんとワシ、忠吉と直接話をしたい。書いてはまずいことも全部聞かせてもらいたい。
それから、登戸村番頭の中田さんから3月末までに運び込まれた小炭団12万個が全部届き、更に金程村謹製の卓上焜炉がきっちり200個入っていたことも知らせてくれた。
この荷で金程村の取り分は、もとい、椿井家の取り分は、金183両にもなる。
義兵衛は工房で真っ黒になって小炭団を作っている皆の姿を思い浮かべ、ありがたさに目頭が熱くなってくる。
『何もない名誉だけかも知れないが、助太郎は士分で苗字帯刀、工房に働く皆は武家奉公の身となっているのだぞ。少なくとも、親・親戚には誇れる話にでもして、一生懸命働いていることに報いないと、立つ瀬がない』
感激している義兵衛を置いてきぼりにして、更に忠吉さんは報告を続けた。
「武蔵屋が今日から湯豆腐を出すということで、様子が大変気になっています。なので、今日の昼過ぎから、手隙になった丁稚を一人武蔵屋の入り口近くで様子を見させています。特に、店から出てくる客が料理の内容をどう話しているのかを聞いてこいと命じています。数日は様子を見させたいと思っておりますが、この方法でよかったでしょうか」
「留守の間のことは良く判った。武蔵屋の様子を見に行った丁稚が戻ってきたら、ワシのところに来て報告させろ。
加登屋さん、帰りついたばかりで誠にご足労ではあるが、坂本へ行って忠告してきてはもらえないか。『まずは基本として1本に絞り早く出したほうがいい。でないと、同じようなものを出す料亭が出始める可能性がある。現に、武蔵屋は卓上焜炉で湯豆腐を出し始めているので、悠長なことをしている間はない』と。よろしくお願いする。
版元とのことは了解した。武蔵屋の記事はこのままでいいし、話を聞く件はいつでもいいが、書いてまずいことを聞きたいというのはどうしたものかな。飢饉にからむ話や神託の件は絶対駄目ということで口裏合わせしておくしかないだろうな」
千次郎さんはテキパキと指示する。
「それから、今日から義兵衛さんは椿井家の徒士に召抱えられた。お武家になられたお祝いを今夜行うので、その準備をしておくこと」
忠吉さんは目を剥いた。
「そりゃ、素晴らしいことです。どこでもいいから、どこかの家に仕官したいという御浪人様が溢れている中で、よう旗本の家に御取立てなされましたなあ。ご出世おめでとうございます。早速、お婆様へご注進せねばなりませんな……」
忠吉さんはいつもの商売口調で普通の文句を言いながら、注進した時に何が起きるのかを想像して固まってしまった。
暫しの空白の時間が経ち、対策を思いついたように口を開く。
「ええっと、あのぉ、そのぉ……。そのお目出度い話は今夜の席で千次郎様からご披露頂けませんか。とりあえず、お婆様にはお目出度いことがあり、お祝いの宴を開きますので、と言ってご出席をお願いします」
忠吉さんは丸投げ宣言すると、いそいそと手配に行ってしまった。
加登屋さんもこれ幸いとばかりに『早速、坂本へ行ってきます』と言い萬屋を抜けて行った。
さて、その夜の宴会は非常に静かなものとなった。
「義兵衛様、このたびは椿井家に仕官なされることとなり誠におめでとう御座います。また、この一ヶ月間はまだ萬屋で修行なされるということで、よろしくお願い申し上げます。そして今まで同様、是非、萬屋へお知恵をお貸し頂ければと存知ます」
覚悟を決めて宴会の冒頭でその趣旨を語った千次郎さんだが、事情を聞いたお婆様は義兵衛に対する姿勢を豹変させ、お祝いの言葉を述べたのだ。
その後話される、版元とのやりとり、丁稚から聞いた武蔵屋の様子などを不気味なほど大人しく聞き、暴言を吐く気配もない。
その姿に、千次郎さんと忠吉さんは一層怯えていた。
宴会の終わりに、お婆様が深く頭を下げてきた。
「このたび、お武家様となられましたが、なにとぞ今までの通り萬屋をお引き立て頂きたく、よろしくお願い致します」
「仕官しても、僕の中身は何も変わっておりません。大飢饉で餓える人が一人でも少なくなるように頑張ることが僕の役目です。そのためには、お役人の力を借りるのが近道ということを甲三郎様に聞きその通りだと思っています。お殿様が、幕府で飢餓対策をなされるお奉行様にご意見できる役職に就かれるようにしていくべきという意見を述べる機会があり、それに応えて頂いたものと考えています」
「なんと、椿井のお殿様は、飢饉が来ることを承知しておったのか」
「村の神託のことは、お殿様へ報告しています。そして、お殿様はご領地の村々の名主を集めて意見を聞き、それに沿っていろいろ事を起そうとしています。なので、これから猟官活動をすることになるのですが、その前にお家の財務の足腰を健全なものにしておく必要があり、木炭加工の事業を村から椿井家に取り込んだのです。僕は、まず、この財務関係をきちんと整理するための仕事を手伝うことになっています。なので、この萬屋さんで市中のお金の流れを勉強するように言い付かっているのです。
長い道のりですが、物事には順番がありますので、一歩ずつ片付けていくしかありません。ご指導のほど、よろしくお願いします」
この説明に、お婆様は納得してくれた。
「本にわたくしにとっては面白みのない話じゃ。萬屋の繁栄が何ほどのものと見えてしまう。やれやれ『逃がした魚は大きい』か。まあ、精一杯応援する位しかできんのが残念じゃが、銭の流れや政治の動きなど追々お教えすることに致しましょうぞ」
お婆様のこの発言で宴会は締めくくられたのだった。
目まぐるしく変わる情勢に、お婆様はついてこれません。義兵衛は、振り切れたのか。
次回は、各料亭から新しい料理の売り出しが始まる様子を描いてみました。
感想・コメント・アドバイスをお寄せください。ブックマークや評価も歓迎です。
筆者の意欲増進に影響しますので、よろしくお願いします。