武蔵屋への売り込み <C2126>
いよいよ実演販売の最初の料亭・武蔵屋です。
■安永7年(1778年)3月28日(太陽暦4月25日) 江戸・向島 武蔵屋
向島の武蔵屋への『湯豆腐』実演販売は実に上手くいき、怖いくらいの成功をおさめた。
直ぐに47個の卓上焜炉の組を2組即金での買い上げとなり、上乗せ皿も100枚の一括購入で金12両を手渡してきた。
小炭団もまずは1500個を3両の即金で、以降は都度まとめて1000個を月毎の掛け売りという形で萬屋から購入するということで、こちらも1個8文を値切られることもなくすんなりと受け入れてくれた。
これは卓上焜炉の効果というよりは、江戸の宴席で『湯豆腐』を出すということの効果を女将が買ってくれたのだと判断した。
確かに板長としては、単に出汁で豆腐を温めたまま出すという何の変哲もない料理なので、面白くもなかろう。
だが、お客の噂の恐ろしさや威力を知っている女将にとっては、元祖・本家・本元という所に敏感なのは当たり前で、これが看板になると料亭の格にもなるということなのだ。
その意味で、料理のネタを一緒にした売り込みは、今までの炭屋にない商売方法なのだ。
ついでに、この日の午後に瓦版の版元まで声を掛ける段取りが出来ている話を女将にすると、女将は版元まで使いをやって武蔵屋まで出向かせ大盤振る舞いの接待をする、と言い出した。
さすがに客商売をしている女将なのだ。
炭屋さんのように殿様商売をしている訳ではない。
「千次郎さん。さすがに武蔵屋さんです。人相手の商売の機微を良く知っていらっしゃいます。萬屋もこのあたりの機微を察して手が打てるようになれば、お婆様も納得なされることでしょう」
千次郎さんは、せわしく立ち回る女将の姿を見て、何か悟ったところがあるのだろう。
「義兵衛さん、私は商売をするということについて、色々と見落としていたようです。卓上焜炉を最初に売り出す炭屋ということは結構重たいことなのですね。このような機会をあっさりとこの萬屋に渡して頂けるということについて、いくら感謝しても感謝し足りないということにやっと気付かされました。お婆様は、最初からこのことを判っていて、義兵衛さんを迎え入れたいと言っていたのだと今更気づかされました。卓上焜炉・小炭団だけでなく、七輪・練炭も同じことなのですね」
「先日までの萬屋では、七輪・練炭を扱うことができない、と以前失礼なことを申しましたが、お判り頂けたようで、これで安心しました。千次郎さんが気付かれたのであれば、あとはこれを番頭さんや跡取りされる息子さんにきちんと伝えていけばよいのです。何も私が居る必要はありません」
結局その夜は、瓦版の版元を呼び、夜通しの接待宴会となった。
千次郎、加登屋、義兵衛の3人は上客として同席し、女将が張り付いて版元と話をこさえていく。
「ところで、萬屋さん。他の料亭に湯豆腐を売り込むご予定はありますかな」
版元としては、当然聞きたい話である。
女将も気にはしていたが、今になるまで聞けなかった話なので、宴席が一気に静まる。
「萬屋は料亭ではありません。卓上焜炉とそれに使う道具はある意味本筋ではなく、これに使う小炭団を売るのが商売です。なので、武蔵屋さんには萬屋の小炭団を使ってもらうために湯豆腐という料理があることを紹介させて頂きました。他の料亭にも小炭団を買って頂けるように致しますが、このように即決でしかも沢山お買い上げ頂けたのでは、この料理はもう他では紹介できないと思います。他の料亭には、また違う料理を紹介して卓上焜炉の売り込みを図るつもりです」
「湯豆腐とは違う料理は、どのようなものでしょうか」
千次郎の説明に、女将が噛みついた。
「申し訳ありませんが、それは次の料亭で披露させて頂く予定の料理なので、ここで披露させて頂くことはご容赦ください。萬屋の小炭団を買って頂くための大事なネタです。ここで明かすと、萬屋は有力な売り込みの手段を失うことになります」
千次郎の説明に、今度は瓦版の版元がここぞとばかりに追及を始めた。
「萬屋さん、次の料亭はどちらですかな。今、料理の内容を明かされなくても、次の売り込みについて行ければ、この湯豆腐のような珍しい江戸初見参料理を味わえるのでしょう。ならば、ついていくまでです」
この問いに義兵衛さんがつい口を挟んだ。
「瓦版の版元さん。次の料亭の料理と、武蔵屋さんの料理の瓦版は同じ擦りにせず、別な瓦版として頂けますか。まずは、武蔵屋さんで新しい宴会用の御膳料理として『湯豆腐』を提供し始めた、ということを記事にして売り出してください。そして、間髪入れずに、次の料亭の御膳料理を記事にして売り出す。それから、この新しい御膳料理の肝が卓上焜炉・小炭団にあること、この道具は萬屋が本家・本元にあることを記事にするのです。すると、瓦版のネタは3つになります。そちらにとっても悪い話ではないと思います」
「それで、いつ次の料亭へ売り込みする段取りになっているのですか。間髪入れずに瓦版を出す身にもなってください。今日の明日なんて言われた日には、体が持ちませんよ」
瓦版の版元の意見に義兵衛が応える。
「申し訳ありませんが、その明日です。できれば4月に入ってから一斉に卓上焜炉を使った宴席料理・仕出し料理膳が出ると良いと思っています。ただ、萬屋が思い付ける料理には限りがあります。今回、登戸村にある炭屋支店のご近所の好で腕の立つ加登屋さんの応援を頂き、このように新しい料理を紹介できましたが、加登屋さんがいなければ実演もできなかったことと思います。あと、4月までに準備を揃えるということでは、次の料亭までしか予定していません。なので、多分2晩徹夜するということはお覚悟願います。おそらく、次の料亭でも萬屋が紹介する料理を看板にすると思っていますよ」
女将がどうしても知りたいという表情をしながら、義兵衛さんに迫り始める。
それまで黒子に徹していた義兵衛さんが、この版元とのやりとりで、実はキーパーソンだと見抜いたに違いない。
「今回、卓上焜炉を2組買い取りしましたが、もう2組を即金で買い取ってもよろしゅうございます。どちらの料亭へ行かれるのでしょうか」
千次郎さんが義兵衛さんを庇って答える。
「折角の御申し出ですが、卓上焜炉は今増産中ですぐにお渡しできるのが2組しかありません。もう2組と言われると4月になってからのお渡しになります。あと、料亭の件はいずれ判るとは思いますが、萬屋が本当に懇意にさせて頂いている武蔵屋さんとその料亭の2軒だけです。真っ先に武蔵屋さんを頼ったということで、これ以上の追及はご容赦ください。
あと、卓上焜炉を使ってどのような料理を出すかまでは縛っておりませんので、是非新しい料理を生み出して頂ければと思う次第です。卓上焜炉を使った新しい料理が出来ればできるほど萬屋の焜炉は売れ、本業の小炭団が売れるという算段なのですよ」
得意満面の笑みを浮かべる千次郎だった。
流石に、料亭の女将は客商売の勘所を直感で押えています。