登戸に来ていた千次郎さん <C2106>
日本橋の主人が登戸に来ていたところから始まります。
「登戸の炭屋支店に、日本橋本店の店主・萬屋千次郎が来ている」
「番頭さんが、大至急義兵衛さんに来て貰いたがっている」
練炭などを届けに行った細山組の面々からその話を聞いて義兵衛さんは飛び上がった。
『一体何が起きているのだろうか』
いくら考えても判らない。皆に緊張が走った。
それでも、せねばならないことは指示しておかなければ進まない。
まず、道具屋で唐箕を受け取って細山組5人で村に持って帰る指示を出す。
助太郎には、道具屋まで連れていって運搬の段取りの指揮を依頼する。
その後は、自分でしようと思っていた外殻・七輪による料理用コンロの説明を加登屋さんにすることを頼んだ。
「助太郎、説明が終わっても僕が炭屋から戻ってこなかったら、炭屋に押しかけてきてくれ。
まずい話になっていたら、それを契機に何とかできることもある。
相手の調子をどこかで乱すことに使えることもあるのだ」
手の内をさらすようなお願いをしてしまった。
「それで、二人とも戻ってこなければ、最後にワシが出張っていって、救い出してあげましょうかな」
加登屋さん、それはナイスです。
思わず居合わせた全員8人が声を上げて笑い、場が和んだ。
これで緊張が解け、力が良い加減に抜けた。
「まあ、ここはなるようにしかなりません。
命が無くなるようなことは、ないでしょう。
『急がば回れ』と言うじゃないですか」
『ご主人、それは例えが違いますよ』
心の中の義兵衛さんのつぶやきに『緊張をほぐす笑いを取りにいっただけかも知れない』と応えた。
「では、炭屋に行って参ります。
後はよろしくお願いします」
義兵衛は加登屋から徒歩で2分もかからない所にある炭屋へ向った。
炭屋の前では、番頭の中田さんが立って待っていて、義兵衛さんを見つけるとバタバタと駆け寄ってきた。
「義兵衛さん、ああ良かった。
昨日から日本橋から主人の千次郎様が来て、義兵衛さんが来るのを待っていたのですよ。
もう、ずっと来るのを待ってました。
いやぁ、長かった」
中田さんは義兵衛さんの服を引っ張ってもう放すまいとばかりに握り締め、店の方へ引っ張っていく。
「一体、何がどうなっているのですか」
「話すと長くなりますので、まずは店の奥座敷へ来てください」
店の中に入ると、後ろに回り、奥へ押し込まれていく。
座敷の土間に来ると、萬屋千次郎さんが卓のところに座ってこちらを見ていた。
「義兵衛さん、やっと来られましたか。
待ちあぐねていましたよ」
義兵衛は座敷に上げられ、そこで事情をタップリ聞かされることになる。
<登戸番頭・中田さんの言い分>
3月14日、義兵衛さん達が焼印の押された七輪や卓上焜炉を持ち込んだその夜、これらを持って本店へ走った。
早朝、江戸市中に入るための木戸の前で待ち、開くとすぐ本店へ走りこんだ。
主人とお婆様、大番頭の前で、最低保証価格である希望小売価格・卸し価格の報告をした。
七輪と卓上焜炉の焼印を見せ説明した。
次に義兵衛さんが登戸に来るのは20日位であり、何をいつどれ位納品すればよいのかを迫られた件と、支店の独断で3月末までに卓上焜炉200個・小炭団6万個の計95両の掛売り分の納品を依頼した件を報告した。
そして、江戸市内の屋台を対象に七輪を貸与する案を説明した。
義兵衛さんが想像したとおり、お婆様が非常に興奮した。
<以上、言い分終わり>
中田さんは淡々と話をし、この間、千次郎さんは茶を啜りながら黙って聞いていた。
しかし、お婆様の興奮というところで口を開いた。
「義兵衛さん、お婆様はこう言って両番頭を脅すのだ。
『それは中田が思いついた商売ではなかろう。大方、義兵衛さんに入れ知恵されたのじゃろ。言い訳なんぞせんでも判る。
それよりも、こういった新しい商売を思いつかんお前等が情けないわ。
悔しかったら七輪3000個を早速作ってもらえ。
この卓上焜炉をみてみい。ちゃんと秋葉大権現様の焼印が入っておろう。
ぐずぐずしておったら、府中宿、川崎宿、足元の品川宿でこの焜炉と小炭団を使った宴席料理が広がるぞ。
そうなったら、料亭は皆金程村参りを始めるに違いない。
その時になってしまうと、義兵衛さんが焜炉と小炭団を萬屋に卸す保証はないぞ。
中田が焜炉と小炭団を少しでも納品依頼したのは、幸いじゃったが、まあ、少々肝が小さいがの。
時間との勝負という気持ちがお前等にはないのか』
と、まあこの程度で収まればと思ったのだが、皆で黙って卓上焜炉を見ているうちに炎上した」
「まず、忠吉に火の粉が降りかかったのだ。
『先日、義兵衛さんが言うておった御膳用の卓上焜炉を萬屋が作るというのは、今どうなっておる。
忠吉、愛宕神社のお礼の首尾はどうなっておる。
確か焜炉は7000個位は用意すると申しておったな、いつまでにどれ位作る手配をしたのじゃ。
ほれ、この金程村の見本が、もう仕上がっているのが見えるじゃろ。売り出す直前まで、準備できているのじゃ。
萬屋からの売り込み・売り出しはいつになっておる。
売り込みのときに見せる料理は何にした』
そう畳み込んでくるのだ。
それなりに準備をしていたのは知っているが、いつとか具体的なことを言える段階ではない。
実際にそれなりのものを、それなりの数を作るとなると、結構大変だし、しかも他所に気づかれないように動く必要がある。
お婆様は全て知って判っているのに、忠吉を責めるのだ。
言っていることが、あながち間違っている訳でもないので、反論もできない」
この嘆きはよく判る。
ほんの少しでも成果が出ていない時に、上司が部下を責める常套句なのだ。
状況を説明はできても、見通しを語るのはとても難しいのだ。
それを聞くほうも判っているのに、それを敢えて口にせよと責める。
口にすれば、その内容に突っ込まれ、さらに責められるだけなのだ。
酷い火傷にならないためには、この時点で黙るしかない。
「そして、その方向はだんだん私の方に向いてきた。
『千次郎、お前は登戸に行ってこい。そうじゃ、孫娘の華を一緒に連れて行け。
思えば、わたくしも父・七蔵が中野島村やその周りの村へ行く折、よくくっついていったものよ。
子供は父の背中を見て育つ、とも言うではないか。
子供心にも父の役に立とうとして、その家の小さい子と仲良くなったり、そのお姉さまに甘えたりしとったものよ。
それが切っ掛けで、話が上手く進んで褒められたこともあったわい。
そうじゃ、華を義兵衛さんと合わせる良い機会じゃ』
そんな無茶を言い始めた。
このお婆様の思いつきは日を追って大きくなってきて、毎日毎日、お婆様の思い出話に付き合わされるようになってきたのだ。
20日位に義兵衛さんが登戸に来るというのであれば、それに合わせてこれ幸いと、とっとと行けばよい。
そう思って、19日には逃げるようにこちらに向ったのさ」
なるほど、そういった訳でしたか。
でも千次郎さん、今本店では忠吉さんは針の筵の上に座らされて、卓上焜炉どころではありませんよ。
こんな所でゆっくり茶を飲んでいる場合じゃないと思いますが。
と、思ったが、これを口にしては話が終ってしまう。
「それはとんだ災難でしたね。
僕が何かお手伝いできればいいのですが」
「よし、良く言った。二言はないの。
では、今すぐ江戸へ出てきて、娘の華の婿になってくれ。
そうすれば、お婆様は間違いなく満足する」
「いやぁ、ご冗談が上手い。
できるのは、お手伝いですよ。
お・て・つ・だ・い、それだけです」
危ない、危ない。冷や汗が流れた。
この会話のせいで、座敷は微妙な雰囲気になってしまった。
千次郎さんにとっては、上司からのイジメにあって災難の日々ということです。
さあ、この微妙な空気がどうなるか、というのが次回です。
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