第二話 偽りの丘
約束の夜。
二人の旅立ちを見守る様に、今宵も星が輝いていました。
その光は冷酷なまでに美しく、その数は圧倒的な存在感を示します。
それは私達が触れることの出来ない絶対的な何かを暗示させるのです。
丘を吹き荒れる風と、それに抗う人間の愚かで醜い……。
「相変わらずの詩人だな、ネリーは」
星の明かりに青年のシルエットが照らし出されました。背が高く逞しい体の持ち主であることが暗がりでも分かります。それが声の主でした。
「ロックウッド、人の心を許可なく覗き込むのは止めてと何度も言っているでしょ」
「人の心を覗くのに、相手の許可を得るのは無粋なことだろう」
「勝手に人の心を覗き見て、それに対して無神経なこと言うのは、もっと無粋よ」
そうやって言い返すのはメイド服を着た若い女性でした。使用人の制服でありながら上品で美しいメイド服。それは王族に仕えるメイドの証。
「それにしても、俺たちの御主人様たちは何処へ旅立つのかな」
「…………」
ロックウッドと呼ばれた青年の言葉に、美しいメイド服の女性の顔が少し曇ります。その憂いに満ちた表情は、彼女の着るメイド服に負けないぐらいに上品で美しい横顔でした。
「お前の御主人様は、やはりヒースクリフ様を裏切ったしな」
そんな上品で美しい顔が、ロックウッドと呼ばれた青年の言葉でぎゅっと険しい表情へと変わってしまった。
「やはりって何よ! あんたまさかキャサリンお嬢様の心を覗いたの?」
「おいおい、そんなこと出来る訳ないだろ。お嬢様の護身結界はお前が編んだんだぞ。お前の編んだ結界を破る力は俺にはないよ。今みたいに詩人を気取って惚けている時はべつだけどな」
そう言って意地悪に笑うロックウッドに、ネリーは冷たい声で答えた。
「あんたは何も判っちゃいないわ。キャサリンお嬢様は決してヒースクリフ様を裏切ったわけではないわ。……それどころか、お嬢様は誰も裏切ってなどいない。キャサリンお嬢様は、自分以外の全ての人を救うために、自らを犠牲になさったのよ」
ネリーの言葉は、ロックウッドの飄々とした表情に真面目な……いや深刻な影を薄っすらと落とした。
「それに、私は惚けてなんかないわ」
「……そうだな、悪かったよ」
二人はしばらく、黙って星空を眺めていた。
ロックウッドはヒースクリフの家に仕える黒の国出身の使用人だった。まだ幼い頃に黒の国から使用人としてヒースクリフの家に買われてきたのだ。黒の国と白の国の間では、人身売買が普通に行われていた。それは何百年も昔から続いていたことで、両国の間ではごく普通のことだった。それはお互いの利益の一致だったのだ。売る側の人間、買う側の人間、そして商品として扱われる人間、三者にとっての利益の一致だった。
ネリーは白の国の生まれだが、母親は黒の国の出身だった。ネリーの母親はロックウッドと同じ様に幼くしてキャサリンの住む城の使用人として買われたのだ。そしてネリーは生まれながらにして母親と同じくキャサリンの住む城の使用人として働き、キャサリンが産まれてからはキャサリンの世話係をずっと務めてきたのだ。年の少し離れた姉の様な存在として。
「ヒースクリフ様も、やはり来なかったわね」
ネリーは悲しみを堪こらえる様に呟いた。
「ヒースクリフ様も優しいお方だからな。キャサリン様と同じ様に……いやそれ以上に」
ロックウッドの言葉にネリーは一瞬怖い顔した。しかしそれを見たロックウッドが優しく微笑んだので、ネリーも我に返り優しく微笑み返した。
「そうね、ヒースクリフ様もキャサリンお嬢様と同じぐらい優しいわよね。だから、あんなに強く惹かれ合うのよ。それなのに、どうして……」
ネリーの堪えていた想いが涙となって零れ落ちそうになる。
「ヒースクリフ様は、お家いえを継がれる決心をされた。……だから明日、三年間の放浪修行に旅立たれる」
「明日! 急じゃない?」
「ヒースクリフ様も、お辛つらいんだよ……」
「……そうだな」
「三年間の放浪修行から戻られればヒースクリフ様は十五歳、鍛冶師のマイスターの試験を受けられる年齢だ。ヒースクリフ様なら間違いなく合格されるだろう。そして黒の国から嫁さんをもらって魔の力を得る。そうすれば、最も偉大な鍛冶師グロースアルティヒの称号を得られだろう」
「そして、鋼から魔剣を鍛えると?」
「そうだ。魔剣を打てる鍛冶師は白の国、いや黒の国を合わせても今は四人しかいない。ヒースクリフ様は間違いなく五人目の鍛冶師となるだろう」
「悪魔の力を借り神の加護を以もって魔剣を産む。それにいったい何の意味があるっていうの?」
「そんな事は俺なんかに分かるはずないよ。ネリーはいつも詩人で哲学者だな」
「私はそんな……」
「神の加護を借り悪魔の力を以って世を治める。それと同じことだよ。そうやって、この白の国と黒の国は調和を保ってきた。それが偽わりの平和で偽わりの幸せだとしても、そこに住む人々がそれを平和で幸せであると感じている事実には嘘偽りはない。それが現実さ」
「その為ために、キャサリンお嬢様とヒースクリフ様が犠牲になられるというのか……」
ネリーの言葉にロックウッドの口調が少し歯切れの悪いものになった。
「どうかな。最近のヒースクリフ様を見ていると少し心配になるんだ。ヒースクリフ様はお優しい方だが、一方でその純真で一途な心は荒々しく激しい性格へと成長……いや変化しつつあるような気がしてならない」
ロックウッドはネリーの心配そうに覗き込む顔を見て、彼女を安心させるように頬を少し緩ゆるませた。
「ヒースクリフ様は世間で言われているような天才では決してない。ヒースクリフ様は類たぐい稀まれなる努力家なんだ。そして恐ろしい程に忍耐強い。親父様の厳しい修行にも血反吐を吐きながら一度も弱音を吐いたことがない。むしろ、その全てを糧にしてここまで成長してきた。そんなヒースクリフ様が、今回の事をどんな風に受け止めているのか……」
「だったら、お前のそのお得意の力で覗いてやればいいじゃないか。いや、覗いてやってくれよ。キャサリンお嬢様のためにも、ヒースクリフ様が本当は何を考え、何を想っていらっしゃるのか!」
ネリーはとうとう自分の感情を隠さず言葉にしてしまった。確かに彼女らしくない言葉ではあったが、それは長年互いに己の主人に忠義を尽くしてきたロックウッドを信頼してのことだった。
「分かっているだろ、そんなことは俺には、俺たちには出来ないって。俺たち使用人は己の主人に不利益になるような事のために力を行使できない呪縛がかけられている」
「ヒースクリフ様の本心を知ること、それはキャサリンお嬢様とヒースクリフ様にとって不利益になることなのか?」
ネリーの悲痛に満ちた叫びが、ロックウッドの心を揺さぶる。
「ネリー、俺たちは主人に仕える使用人に過ぎないんだ。自らの能力を使って自分の主人の人生に干渉するなど……それは出過ぎたことだ」
その言葉を聞いて、ネリーは不意に笑い出した。
「なんだよ」
「ロックウッド、あんたもヒースクリフ様に似てきたね」
ネリーのその言葉を聞いて、ロックウッドとも笑った。二人の笑い声が、丘に吹く荒々しい風に消えることなく高らかと響いた。それはとても優しい、とても物悲しい笑い声だった。
「……それで、キャサリンお嬢様の様子は?」
「キャサリンお嬢様も近日に黒の国へ出発されるわ。あちらで一年間花嫁修業を積んで晴れて女王様になるのよ」
「女王様って、やっぱり現国王は王子に国王の座を譲るのか? 王子はまだ二十歳そこそこの子供だろ」
ロックウッドの言葉にネリーは冷たく答えた。
「噂では悪魔の血を引きながら神様みたいに清きよらかでお優しい方だそうよ」
「なんだよそれ、胡散臭いな」
「ええ、私もそう思うわ」
ネリーの美しい眉が額に険しく寄せられた。
「……それでも、キャサリンお嬢様は行かれるんだな」
「偽りの平和と偽りの幸せを守るためよ」
ネリーはロックウッドにイライラしながら意地悪に言った。しかしそれが八つ当たりであることは彼女自身にも分かっていた。
「そんな盟約で戦争が防げるのかよ。所詮は王族なんて国民の象徴でしかないんだぞ」
ロックウッドのその言葉に、ネリーのイライラは冷水をかけられたように治まった。
「ロックウッド、口を慎つつしみなさい。調子に乗らないで」
ロックウッドの言葉は、王族に仕える気高きメイドの使命をネリーに思い出させたのだ。
「……悪かったよ」
「それで、この手紙、どうする?」
ネリーはロックウッドの謝罪を素直に受け入れ、今夜ここへ来た本来の用件を切り出した。
「あっ、俺も預かってきた。ほら、ヒースクリフ様の手紙」
二人はお互いに手紙を手にしてしばし見詰め合った。それはヒースクリフからキャサリンへの、キャサリンからヒースクリフへの手紙であった。
「ほんと、ヒースクリフ様もキャサリンお嬢様も、考えてることが同じっていうか、発想が同じなんだよな」
「……お二人とも、本当に愛し合ているのよ」
「どうせ、『俺のことは忘れて幸せになってくれ。俺もお前のことは忘れて自分の幸せだけを考える』なんて見え透いた嘘が書いてあるんだろうな」
「それはきっと、このキャサリンお嬢様のお手紙も一緒よ」
「……それが、二人の本当の愛か」
ロックウッドは自分の主人の手紙を手放してしまうのを躊躇う様に、星空にそれをそっと掲げた。満天の星の輝きが、その手紙に秘められたヒースクリフの想いを少しでも語ってはくれないかとロックウッドは願ったのだ。もちろん、それが詮無い願いだとは分かっていたのだが。
「さっ、手紙を交換しましょう。それでお別れよ、ロックウッド」
「ああ、そうだな。ネリーも達者でな。キャサリンお嬢様のこと頼んだぞ」
「何を言っているの、あんた頼まれなくても、キャサリンお嬢様は私が命に代えて守り抜くわ。……でも、ありがとう。ロックウッド」
ロックウッドはネリーとは長い付き合いだ。それなのにネリーのそんな素直で優しい『ありがとう』の言葉を初めて聞いた気がした。だからロックウッドは柄にもなく返事に困ってしまった。
「…………」
そんなロックウッドの様子を微笑みながらネリーが覗き込んだ。
「ロックウッドも、ヒースクリフ様のこと頼んだわよ」
「安心しろ、俺だって命を懸けてヒースクリフ様をお守りする覚悟だから」
そう言うと、二人は静かに笑った。
こうして二人は、互いに主人から託された手紙を交換し、お互いの主人の許へと帰ったのだった。
ヒースクリフとキャサリンは、朝陽に美しく照らされる丘を見ていた。
荒涼とした丘が黄金色に輝いているのだ。
ヒースクリフは工房の一番高い屋根の上で。
キャサリンは小城の塔の上で。
お互いの手紙を手に握りしめながら。
この偽りに満ちた世界の中で、この手紙だけが唯一の真実だと、お互いに信じあって。
後にその手紙の存在、そして内容を知った後世の歴史家や魔術師は、その内容に驚き、恐怖し、そして言葉を失ったのでした。
第二話「偽りの丘」・了
これは2017年11月3日に「魔瑠琥の童話集」にて公開されたものを転載したものです。