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9.習作を書いてみた(その2)

「あれっ。居ないぞ…?」

 陽介は最初からベッド脇の床へ目を据えていた。ところがそこに、廊下に居た彼の足下まで微かに震わせるほどの落下をしてもなお、暢気に寝息を立てているはずの妹の姿は無かったのである。彼はベッドを見た。恐らくははね除けたのであろう、掛け布団は足下の方へ大きく寄せられていたが、そこに乱暴さは無く、まるで畳まれているように見えるのが小夜子らしかった。ベッド下のスペースは幾つかの衣装ケースが占有していて、如何に小柄な妹でも潜めまいと思える。首を巡らせば大きな姿見や左右にきちんと寄せられたカーテンが目に留まったが、これらも妹を隠せる物では無かった。

 小夜子は気配を殺してしゃがんだまま、彼女の姿を求める兄の死角に留まり続けるという芸当を、自分でも驚くほど上手くやっていた。しかし暫くして、現状は家族とはいえ異性による自室の熱心な検分に他ならぬと思い至って、勝ち気な彼女は兄の無神経さのみに腹を立て、16の娘らしく体を熱くした。慌てた彼女は、早急にこの遊戯を打ち切ることにした。都合良く陽介が体をこちらに向ける。まだ彼女に気付く風も無い。小夜子はにやっと笑った。突き上げるように立ち上がった。

「ん。なんだ…?」

 結果から言えば、この成功間違いなしに思われた小夜子の罪の無い悪戯は、完全な失敗に終わったのだった。更に彼女には、自身の無残な見込み違いを嘆く暇も与えられなかった、もっと不可解なことが続いたからだ。小夜子は今も、まさしく陽介の眼前に顔を突き出している。ならば、彼も妹を見ただろう。それが否なのである。陽介は少し後ずさったが、それは驚いた人の振る舞いでは全く無かった、自分でも説明が付かずによろめいたようになってしまい、明らかに戸惑っているのだった。両目は不審げな眉の下から、小夜子の方へ向けられてはいる。だがその目には、肉親が肉親と向かい合った際の、いや少なくとも、人が人と相対すれば何らかあるはずの最も単純な感情の震えさえ、凪いだ水面以上に映し出されていなかった。それは悪意を向けられる方がまだましな、酷薄な無視の眼差しに思われた。

 この謂われの無い、突然の無関心は少女を傷つけ、憤らせた。彼女の方は肉親の眼差しで見てるが故に、兄の態度に演技の無いことを確信できるのである。ちょっと待って、一体どういうつもり? 小夜子は、最初こそ先行した怒りの直ぐ後ろから、不安の暴風がとてつもない勢いで迫っているのを敏感に感じ取った。それ故、一層勝ち気に兄に問い質そうとした。すると、またもや異変が彼女を襲う。声を全く出せなくなっていることに、突然気付いたのである。発声の欠落には、窒息の恐怖も伴った。両膝が油圧制御の滑らかさで次第に折れていき、やがて彼女は床にうずくまる。実の所、彼女の窒息はずっと悲鳴を上げ続けていた故の弊害に過ぎぬのだが、なんの予兆も無く声を失った事実は、それほどたわいも無く彼女を怖がらせた。幸いなことに、偶然そこにあった彼女の左手が、彼女の胸の深い上下動を再確認した。早速彼女の唇が言葉を形作ろうとする、結果を恐れた舌が強張る。小夜子は、涙の滲んだ目で見上げた。彼女が寄る辺のない幼子のように怖がっている間、陽介はと言えば、やはり彼女など無いものとして部屋の中をうろついているのである。小夜子には理解のしようも無かったが、兄は彼女の部屋を訪ねてきながら、まるでこの世界の足下、色彩のある影の世界へ入り込んでしまったみたいだった。兄との距離、そんなものを不意に意識させられて、彼女は普段の兄の何気ない、時に暑苦しい、けれど振り返ってみれば例外なく彼女を思っての、多くの気遣いと初めて向き合った。これといって秀でたところなど何も無い、人の良さだけが取り柄のような兄である。しかしそれでも小夜子には、穏やかな入り江にある港のような兄だった。活発で面倒見が良く、大勢の学友に頼りにされる彼女が、例えば今朝果たせなかった天文部の助っ人も、人手不足を見兼ねてのものだったが、飽きもせず人との交流に漕ぎ出していけるのは、いつも必ずこの静かな港に帰れると、無邪気に信じていたからである。在ったはずの港が急に絵に描いたようになって、小夜子は胸を締め付けられた。遂に、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「…あれ? 俺は…」

 陽介は小夜子の勉強机の前に立ち、その上に置かれたままだったカフカを所在なげに繰っていたのだが、ふと何かに気付いて顔を上げたのである。小夜子も、久々に聞くような兄の声に顔を上げかけたが、結局は彼を直視できなかった。兄のこのなんでもない一言の内に、自身に関する底知れない何も無さを決定的に感じ取ってしまったからである。ここに至って、この世界との紐帯を今まさに断ち切られようとしている自分を、彼女ははっきりと自覚した。そんな馬鹿な。彼女の論理的な側面は、こんな場面だからこそ冷静であれと戒めている。だがその側面は、結局の所、いわゆる常識を検討する役にしか立たぬのではないか。彼女の心は、ちっとも狭苦しい働き方をしない。一方では、物事を一足飛びで明瞭にしてしまう、あの論の運びを跡づけられない理解の仕方が、彼女の感じ得たものを退けようもなく肯定していた。しかしそうやって感得したものは、彼女を暗鬱にさせても次に取るべき行動までは教えてくれない。小夜子は身を強張らせた。結論をいえば、彼女はここで素早く耳を塞げば良かったのである。

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