8.習作を書いてみた(その1)
時報の設定は4時だったはずだ。
だが、実際に目覚めたのは6時半だ。
それも、悪夢に瞼をこじ開けられるようにして。
息苦しい。
胸に鉛でも詰まってるみたいだ。
それが小夜子の、今日という日の書き出しだった。
彼女はようやく、ゆっくりと息を吐き始める。
広がりきり、強張っていた胸が、徐々に沈む。
筋肉の弛緩が痛みとなった。
軋む胸。暫く意識的に上下させ続ける。
自然な呼吸の復元に、かなりの時間を費やした。
不意に、左手が額に触れた。
その甲がいやにべとついた。
改めて全身を意識してみれば、酷い寝汗をかいている。不快さに身じろぎした。むせかえるような熱気が、掛け布団の下から溢れてきた。
自分は一体、どんな悪夢を見ていたのか。
その朧気な影だけは記憶している。それは惑星の日に照らされていない側のような、常に彼女の意識の裏側の、真の闇の中に居る。目覚めて再び言葉になった小夜子が、もはやその面相を語り得ないのは道理であった。
「おい、小夜子。おい」
兄の声と自室のドアをノックする音が、突然前景化したのだった。
思うに、それなりの時間、自分は呼ばれていることに気付かなかったらしい。声やノックの調子に苛立ちが感じられるから、そう推測できる。
そして、そうやってぼんやり考え続けていれば余計相手を苛立たせることになるのだが、まだ小夜子は、いつもの聡明さを取り戻せていない。
「天文部の助っ人で観測に行くって言ってなかったか? それはもういいのか?」
兄、陽介の呼びかけは続いている。普段起こしに来たこともない彼がこうして妹を気に掛けているのは、確かに異変があったからである。小夜子は今朝に至るまで、自分で起きると決めておいて寝過ごしたことなど、ただの一度も無かったのであった。小夜子が持って生まれた化学的な時計に、初めて狂いが生じた。しかし彼女を真に動揺させたのは、人との約束を、これも初めて守れなかったことであった。その衝撃で跳ねたように、だがしなやかに身を起こす身体の使い方は、もういつもの小夜子である。ところが、ベッドに膝立ちになって伸び上がり、天井灯の紐を引こうとして、彼女は再び我が身を疑うことになった。この何と言うことのない動作でたわいもなく、ベッドから転がり落ちてしまったのである。しかも咄嗟に手をつくとか、そんな受け身すら取れなかった。彼女は床に強か右肩を打ち付けてしまい、小さく呻いた。
「小夜子? 開けるぞ!」
右肩の痛みが忌々しく囃し立てる。その騒々しさを掻き分けるようにして、陽介の張り詰めた声が届いた。小夜子は気付いていなかったが、彼女は落ちた時、思いの外大きな音を立てていたのである。ドアが勢い良く開かれた。雨戸を閉め切った部屋の、まどろんだままだった空気が、さっと起き上がったようだった。廊下から朝の涼やかさに続いて、緊張した足音が一歩、踏み込んでくる。
「おっ…? なんだ、返事もしないからどうしたのかと思えば…」
暗闇の中で陽介が安堵の溜息をついている。そして直後には、どうも可笑しさに口許を緩めているようである。直感に優れた小夜子には、妹は寝ぼけてベッドから落ちたのだ、しかもまだ眠りこけているようだ、兄が思い浮かべたであろうそんな想像が、手に取るように分かった。勝ち気な小夜子は俄に肩の痛みを忘れた。兄は明かりをつけようと、部屋の中へ進んでくるだろう。今自分が座り込んでいる、直ぐ傍まで寄ってくるはずだ。明かりがついた途端、彼の目の前にすっくと立ち上がる。自分は勝ち誇って驚いている兄の顔を眺めてやるのだ。淡い光を背に戸口にあった陽介の影が、すっと暗闇と同化した。時折床を微かに軋ませながらそろそろとこちらに近付いてくる。その気配が止んだ。小夜子の思惑通り、陽介は彼女の直ぐ傍に立っている。まるで彼の衣服の表面の毛羽立ちで頬をくすぐられるかのような錯覚、それと悪戯成功の予感とが相俟って、小夜子は笑いを堪えるのに苦労した。頭上で陽介が明かりの引き紐を探り当てたようだった。陽介の動きに集中する彼女には、かちっという軽快な音の一瞬前に、兄の指が引き紐を擦過する音さえ聞こえた。部屋が光の無い水底から仄明るい水深まで至る。かと思うともう水面へ浮上している。小夜子は立ち上がろうと顔を上げて、がっかりした。兄は背を向けていたのだ。それで一気に立ち上がるには機会を逸してしまったが、この見込み違いは新しい悪戯を思い付かせた。兄はまだ、足下の自分に気付いていないようだ。思った場所に見当たらない彼女を探して戸惑う様を、ゆっくり見物してやろうというのである。