7.「ぶぶへん!」を寸評し、我が着想を得ること
以上が、“俺の体に部分的変身が起こって以来、妹の様子がちょっと変”、通称 “ぶぶへん!” の冒頭数十枚だ。
物語りは無論この後も続いていく。その主調を要約すれば、不幸でいることを許さない賑やかさ、とでもなるだろうか。それは登場人物の非常な多さと、彼らの悉くが楽天的であったり、我が道を行ける強い信念の持ち主であることに起因するようだ。例えば、引用の最後に登場した人物、彼女は小鳥遊家の隣家に住み、兄妹と同じ学園に通う先輩で、両親が不在がちの兄妹にとっては親代わりのような心優しい女性なのだが、その母性は人食い鬼を、その大らかさは時間の生真面目さをも懐柔しそうなのである。一方で、この女性にも妹がいて、彼らが籍を置く学園の初等部の生徒という触れ込みだが、こちらは姉と対照的に気難しい、辛辣な哲学者といった風情で、真情が読み難い魔術的な論理で度々事を起こしては、特に天晴を陽性の混乱に巻き込み、結果的に彼の生活が暗くならないようにしているらしいのだ。その他にも、天晴の親友で女好きのお人好しという男子生徒、男友達のような気楽さで天晴に接するクラスメイトの一女子、学園公認のアイドルとして一身に好意を集めながらも当人は至って控えめな女子生徒、面倒見の良さとその美貌でやはり多かれ少なかれ偶像化されている女教師、月夜の親友でその兄に密かな想いを寄せる後輩女子、そして民主的な憲法が承認した独裁者とでも言えそうな、実に神秘的な在り方をする生徒会等々、困難に立ち向かわざるを得なくなった兄妹を取り巻くのは、みな思い遣りがあったり身勝手だったり、しかし共通しているのは、誰もが自分なりにユーモアを心掛け、状況を積極的に肯定できる人々なのである。
文芸部長はこの作品を “上質なナノベ” と評した。さてしかし、果たしてその評価を鵜呑みにしても良いものだろうか。私には気になる所があるのである。
と言うのも、主人公の青年の身体に、部分的とはいえ “不可解な変身” という現象が起こっていることが、本作品の血縁を物語るように思えるのだ。更に、この物語は雨の日の朝6時半に幕を開け、不幸に見舞われた青年には妹もいる、といったように、設定の幾つかに共通点も見られる。私の気掛かりはもうお分かりであろう、即ち本作品はカフカの小説、最早説明無用のあの掌篇からの収穫物なのではなかろうか。それも、かなり大胆に翻案した。
敢えて管見を申し上げれば、カフカは彼の掌篇で、救済のない不幸を描いていたように思う。一方で “ぶぶへん!” は、カフカ流の不幸を笑いに転化して、担えないほどの不幸にも救済が有り得ることを陽気に表明しているのだ。その救済への過程で強力なエンジン役を果たすのが、“ぶぶへん!” では女性登場人物の多さと、彼女らの活躍だろう。彼女らは、その各々が各自の挿話によって天晴との絆を深めていき、それぞれが良かれと思ったやり方で天晴を幸せにしようと大いに奮闘する。その熱意が、時には常軌を逸するほどであるため天晴は新たな不幸に見舞われもするが、そういった挿話的な不幸は、ある物はほぼ無害であることを理由に積極的に放置され、ある物は解決の道筋が付けられ、結果的には全てが解消する。そして、小さな嵐が過ぎ去った後、天晴の人生は必ず豊かになっているのだ。これは余談だが、負の主調を正に転じて見せた翻案の仕方としては、かつてガルシア=マルケスが “わが悲しき娼婦たちの思い出” の中で、川端康成の “眠れる美女” の老醜と死への眼差しを、老人賛歌・生への賛歌へと色鮮やかに変えた、あの仕事を思い出すのである。
さて、そのように “ぶぶへん!” を読んでみたところで、問題は私自身がこのような、余白と親和性のある書き方を出来るのか、ということである。とにかく試してみなければならない。
つまり習作を書こうという訳だが、なにぶんこのような書き方は初めてだし、急ぎ取り掛からねばならないという事情もある。そこで私は、“ぶぶへん!” に色々と倣うことにした。材料としては私もカフカ掌篇を選び、これを “ぶぶへん!” 流に肯定的な調子へと転調させてみよう。同時に、余白と親和性の高い書き方も学ぶのだ。
恥ずかしながら、私は登場人物の名前を決める際にも長考が常である故、ここも “ぶぶへん!” を参考にさせて頂こう。ふむ、なにぶん急拵えだが、核となるアイディアも出てきたぞ…新しい書き方に挑むのは不安も多いが、探求心を刺激される営為でもある。この高揚感が弱気に萎まない内に、早速取り掛かるとしよう。