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最終章 我が意識余白となりかけて、遂に光明を見出すこと

 あっ。

 私は、書き上げた文章の全体を見渡そうとして僅かに頭を上げた際、目の端にそれを見てぎょっとしたのだった。どんなに生みが苦しくともやはり没頭していたものか、執筆を始めた頃はまだ明るかった窓外も、今ではすっかり暗くなっていた。その闇の中なのである、一匹の悪鬼が、まるで漆黒のカンバスに透明感のある絵具を荒っぽく盛り上げて描き出したような、絵画的だからこそ根源的な質感を持つ顔を突き出して、こちらを覗き込んでいたのだ。腰を抜かしかけ、悪鬼から目を離せずに口をぱくぱくさせていたところで、私は事の次第に気が付いた。結局、そいつは窓に映った私自身だったのである。

 私は安堵の溜息を漏らし、額の汗を拭った。確かに上の書き直しで、最後に試みたような書き方は作家として悪魔に魂を売り飛ばすやり口だろう。しかし、短い一文の連続はどうしても最初の習作が具えていたリズムを乱すし、伝えたいことを辛うじて再構成し得ても、それらが伝わるための拠り所である空気の質となると、やはり変容著しい様になってしまう。ほらごらん、この噺家の如き語り口は、一体何処からやって来たものだろう。それに矢印などの記号。なるほど、これらは文意を保存した字数の圧縮には役立つであろうが、本習作の主調を支えるには、やはり相応しくないと思えるのである。

 私は思い悩んだ。だが、これから書かれようとしている物語が具えるニュアンスやリズム、それらを作者として責任ある態度で保存しつつ、余白も最大化するには、どうしても最後に試みた書き方しか私には無いようだった。私は再び受話器を取った。するともう、電話線の向こうでは、相談したい相手が待ち構えていた。

 いやいや、先生。さすがにそれではページ数が嵩みすぎてしまいます。私はこの通話がどのようにして繋がったのかに気を取られ、それは重要な陳情の最中も同じだったが、要領を得ない説明を聞き終えた文芸部長が余りにも憐れな声を絞り出すようなので、やっと事の本来に立ち返れた。しかし、こちらの事情を鑑みれば、今度ばかりは容易に引き下がれない。私は無表情な声というものをイメージしながら切り出した。私の理解では、お引き受けした作品集では余白を売りに出したいとのお考えだったと思うのですが、ならば、今お話しさせて頂いた方法は余白を更に増やす訳ですし、問題など無いはずではないですか。息苦しさを覚えながらも果敢に言い募ったが、いよいよ亡者の憐れさが、電話線を伝って私を脅かすようだった。それで大量の広告収入が得られ、本当に作品を無料で配布できたとしても、と、骨壺の蓋をそっと持ち上げた僅かな隙間から文芸部長は囁いた、本が分厚く、何分冊にもなったのでは、結局誰も手にしてくれません。その言葉は非常に聞き取り辛く、私は次第に体の傾きを大きくしながら受話器を耳に押し付けていたのだが、突然のがちゃりという大きな音に、あっと受話器を取り落としてしまった。亡者の手には重すぎた焼き物の蓋が遂に落ち、骨壺が完全に閉じられたのだった。

 私は青ざめた顔で受話器を戻した。根底から着想を変える必要があった。余白が豊富な小説を書くための、大胆かつ私にも無理のない方法。いっそのこと、余白を語る小説を書こうか。きっと拙い余白論を延々とぶつことになるのだろう。では、○○が消えた、という一文を限りなく繰り返し、読者の心理を空白へと誘えないだろうか。どこで小説を終えていいのか作者にも分からないし、大体、読者を空白に放擲する前に作品の方が投げ捨てられてしまうだろう。冒頭にあらすじを示して、後は全て読者の想像に委ねる小説。本文余白のみ。タイトルを “賑々しい余白” として、後は全て読者の想像に委ねる小説。本文余白のみ。広告などで私の新作が出るとだけ触れ回って、後は全て読者の想像に委ねる小説。本文は勿論タイトル部分も余白のみ。

 私はとうとう、思い付きはしたものの、出来れば却下したかったアイディアに縋ることになった。つまり、私自身が余白となり、そのつもりで書いたらどうなるだろうということだ。私は余白なのだから、執筆は即ち自身を侵略・抹消する行為であり、自ずと筆も鈍るのではないかと思ったのだ。それにしても、創作の長い歴史の中、こんな着想で書いた作家は居るのだろうか、作品が上梓されたとして、そこに文学的な価値はあったのだろうか。事態は私の想像力をとうに超えているが、とにかくやってみなければなるまい。しかし余白の気持ち。余白の。むぅ…



※※※



 私→

 ↓





                無くて在る




 君が書く



     一字挿入



   また挿入





                                    深く挿入







 君にとって

 文字は実数

 文章

 長い連なり

 黒く

 長く

 伸張





           私にとって


           文字は虚数







 長い連なり





                         次第に白く

                                深く

                                     穿たれ






                 君が書く





 一字挿入






                            また挿入





                                    深く挿入




 ああ




             私はやがて






                  白に満たされ



※※※



 いや。濁され、とすべきだろうか…私、諾々として異物挿入され…ん…

 …

 …

 …うむ。

 なるほど、“余白の気持ちで書く” という行為の帰結として、このような結果が有り得るのか。

 ある意味貴重な経験だったが…いや、危なかった。あと少し我に返るのが遅かったら、自慰行為を独白するていでポルノを書くところだった。あっ、私はなぜ内股に。しかも頻りにもぞもぞさせて。

 やはり、このアイディアは失敗だったのだ。早々に破棄しよう。そして心を静め、次の手を考えるのだ。

 考えるのだ。

 考え。

 考えたいのだが…

 うぬっ、仕方がない。妻に頼み込んで…あっ駄目だ、旅行中だった。ええい、こんな時に。残された手段は。いや、まさかこんな歳で。むっ。いや! 贅沢は言ってられぬ。事は急を要し。では。ちょっと失敬。




     ぬう…



          ほぉ…

  

                        はっ!?




          ふん、ふっ。     ふんすっ。



                                   ぉ  ぁ

                          ずっ

 そう、自噴井! ふぉっ!?   っ


 っ  っ




                   っ





        っ




                                  っ



 …ふう。すっきりした。

 思考を惑わせていた毒霧もすっかり晴れたようだ。それに一人は久々だったが…その良さも再発見できたしなぁ。うふっ。

 では、再び問題に立ち向かうとしよう。実は、今の小休止で、他の芸術形式の中に考えを進める糸口を発見したような気がしたのだ。ジョン・ケージの “4分33秒” 、この楽曲がヒントにならないだろうか。

 私はこの作品の演奏を実際には見ていない。以前、音楽を主題にした特別展を東京の下町に在る美術館に観に行った際に、その記録フィルムを見ただけである。この記録は、演奏が行われた空間の報告であった。一周を見渡せるカメラはただ奏者を映すのみならず、演奏が行われている小部屋の窓から見える景色、聴き入っている少数の聴衆、ゆっくりと回転しながら、その場に在るただの一つも背景とせずに映し出していた。そしてこの記録を見る者は、奏者が前にしているピアノの響きは一音も聞かないけれども、窓外の濡れた地面に、強い風に吹かれる木々に、それらを揺らす風に、奏者と聴衆の表情や仕草に、自らの音を心の中で響かせるのである。私は音楽に関して門外漢だし、だからこれは飽くまでも私的な感想なのだが、無音とはなんと賑やかなものなのだろう、沈黙とは果たしてなんなのか、強く印象に残ったものだった。

 ケージはこの楽曲で、普段は “周辺” として意識されないものを主役に抜擢し、無音とは、結局は人の意識が作り出す無に過ぎないと言っているようにも思う。そしてそこに、今の私を救う何か重大なヒントがあるような気がするのだが…あっ。

 この考えを小説に置き換えれば、つまり主役は余白で、“周辺” は文章と言うことにならないだろうか。ならばこんな事も出来るだろう。即ち、版面の周囲に何か象徴的な短文を撒くように配置して、中央は大きく余白として空けておく。読者には、周りに書かれている言葉の断片を頼りに、中央の余白に自身の内なる声を聞いてもらうのだ。余白とは結局、人の意識が作り出す無に過ぎない。小説においてその着想を実践したなら、例えばこんな見せ方になるだろう。そしてこの方法は、何よりも出版社の意図に、良く適うとも思われるのである。

 これは行けそうなアイディアだ。ただ、ひとつ心配なのは、版面の周囲にしか印刷面が無いという、やはり一文の字数と総文章量が限られそうな中で、私自身が物語を書き得るのかということだ。実験的な作品でござい、と読者を惑わすだけ惑わすのは簡単であろうが、出来ればそんな事態にはしたくない。読者の自由な発想をむしろ必要とする作品とは言っても、最低限、物語の方向付けは意識しなければならないだろう。これでは結局、上の習作でさんざん苦労して、為し得なかったことの繰り返しではなかろうか。

 …いや、ちょっと待て。そう言えば広告、広告だ。今までは自作品と余白のことしか考慮していなかったが、出版社の意図を了承したのなら、出来上がる作品は私とその広告を作る人との共同制作ということになるのだ。広告という要素も含めて、このアイディアを吟味し直してみたらどうなるだろう。

 幾度も繰り返してきた通り、半生を作家として生きるのみに費やしてしまった私は極めて世事に疎く、これまで広告というものを子細に拝見させてもらった事は無いし、それらがどのような経過を辿って、最終的に人々の元へ届けられるのかも知らない。しかし、広告も文字その他の形式を用い、作り手の意図や心象を相手に伝えようとするものらしく、それならば小説と一緒である。即ち、広告の制作に携わる人々も、作家同様芸術の一領域に身を置く人々であろう。特に彼らも言葉を扱うのであるから、血縁でいえば作家の親類筋とも考えられる。きっと文学にも深い造詣をお持ちだろう。

 もし未熟な私が救われる道があるとしたならば、まさに広告を創作する人々の、この文学との親近性の中にこそあるのではなかろうか。彼らはきっと、限られた印刷面に私が四苦八苦して書いた舌足らずな文章に、私を助けるのみならず、読者の想像の広がり・深化をも助けて余りある、有意の広告を補って下さるだろう。それどころか、小説の内容を拡張あるいは異化し、作者当人も気付かなかった可能性をその物語から汲み上げてくれるような、ミューズが後から添えてくれたような恩寵だって期待できるのである。

 ああ、これで救われる。私は椅子の背もたれに深々と身を任せ、思う存分安堵の溜息をついた。明けなかった夜が突然明けた、地球が急に自転を思い出したのだった。恐るべき難題を解決し得たという圧倒的な幸福の中、私は危うく、その人のことを忘れ去ろうとしていた。そう言えば文芸部長だって救いを待つ一人である、一刻も早く、私自身が彼を墓場から連れ戻さなければならない。元気いっぱい、私は受話器を取った。文芸部長はきっと私を見直してくれるだろうな。そして私は、自身の領分をまた広げたとして、各方面からのお褒めに与るのだ。わはは。おや、急に笑いが噴き出てきたぞ。自噴井! わは、わははは。ああ、私は幸せ者だなぁ。わははは。わはははははは。



(了)

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