11.習作を書いてみた(その4)
それは幼い頃の記憶であった。彼はその熱さを、時には今と同じ様に背に、時には胸元に、確かに感じたことがあった。背に感じた時は、感じさせてくれたものを負うていたように思う。胸に感じた時は、それを両腕に包んでいたと思う。そして、その様にしていた時、彼はそれに共鳴して泣いたり怒ったりもすれば、優しい穏やかな気持ちと、幼少の男子に相応しい真っ直ぐな正義感とに満たされ、とても誇らしい気持ちになれたりもしたのだった。つまりそれは、彼を随分人間らしくしてくれたものだった。然るに今、彼は受けるだけ受けた贈り物のことは覚えていて、その贈与の主のことは何も思い出せないのである。彼は空虚を負い、空白を抱きしめているのだった。人のいい陽介には、この不義理が許せなかった。何かを忘れているということだけが明白な初めての事態に、恐ろしい孤独を直感した。ひとつの思いに囚われそうになった彼を救ったのは、またしても不可視の何かだった。その丸みを帯びる一部が、いま彼の背を強く擦過するのである。その刺激はあるいは柔らかく、あるいはごつごつ当たって、幼少時の彼は、そんな風に彼の背で嫌々をする何かと、確かに繋がりがあったのである。彼の肩はたおやかに叩かれ、艶やかな黒髪が思い起こされた。するとある香りが立って、彼の鼻腔をくすぐった。その香りは、今はもう大人びた、人工的な甘さが勝っている。けれども陽介は、幼い頃幾度か背負い、何度か腕に包んで、知らず知らず記憶にすり込んでいた香りを、その中にはっきりと嗅ぎ分けた。それは、彼には掛け替えの無い人の、肌の香りのはずであった。電気に打たれたように、陽介は身震いした。忘れ去っていたものの重大さに鼓動が激しくなり、息が苦しくなった。
「…小夜子?」
陽介は額にじっとりと汗をかき、喘いでいた。わななく唇が、ようやくその名を音にしたのだった。彼は目眩を感じたが、その稲妻のような、一瞬ではあるが強く目に焼き付く現象を見逃さなかった。彼が今も掌に包む何かが、褪せた色合いを伴った薄い影のようになって、ぽうっと虚空に浮かび上がり、直ぐに見えなくなったのだ。その影は、彼が想像したように人の手であった。彼は残像を頼りに指先に力を込める、ただ、これは振り解こうとするそれまでの拒絶ではない、その絶叫する小さな手を、自分が再び、確かに取ったことを伝えようとするものだった。すると、右の耳に熱いものが吹きかかり始めた。彼に縋り付いているものが間違いなく小夜子だとして、背に感じた体重の移動から察するに、彼女が耳許で何かを訴えているようなのだ。今の陽介に、自身が直面する事態の “何故” を不問にするのは容易いことであり、彼は瞬時に、妹は可視性だけでなく、言葉をも失ったのだと理解した。妹を安心させるために、自分には何が出来るのか。彼は先程も役立った、己の言葉に賭けてみることにした。
「小夜子、ごめんな。やっと分かったよ。お前はずっと、ここに居たんだな」
彼の握っていた小さな手が、光を放ったかのようだった。実際には、それが本来の色味を再び閃かせたのであったが、あっと思った瞬間には、小さな両手は彼の束縛から逃れていたのだ。その手は、間を置かずに彼の首に抱きついた。首筋に熱い湿りを感じる。苦しいほどに身を寄せる小夜子が、音も無く流す涙であろうが、陽介は窮屈に振り向いてみてがっかりした。妹は少なくとも可視性だけは取り戻した、そう期待したのであったが、小夜子は、彼女にはどうしようもなく、直ぐにまた空気の後ろへ隠されてしまったようだった。だが、陽介が果敢に試したことによって、そこに思いの繋ぎ場所があると彼が確信することに、在りながら無いことにされそうになっている妹を、救う鍵があるように思われた。自分のたくさんの言葉が、今は見えない小夜子の輪郭を隈無く取り巻いて、その姿を浮かび上がらせる様をイメージした。もっと小夜子に語りかけよう。陽介は口を開きかけた。そこで、それを聞くのである。
(………兄さん………)
それは小夜子の声だった。弱々しく、まるで空間の隙間から漏れ出てくるといったような、何とも言い難い響きを伴ってはいたが、聞き間違えようがなかった。今、妹が呼ぶ声は、陽介の過去から響くようで、彼は自分でもそれと意識しない素直な力を体に漲らせ、身を寄せてくる妹との間にちょっと余裕を作ると、一気に彼女と向き合った。そして、やはり自然の内に過去を繰り返して、記憶にあるよりは成長して、けれどなお華奢な小夜子の肩から背中の辺りを、両腕でゆったりと包んでやった。そうすることで胸元にかかる重みに、久々満たされた心持ちになる。不安よりも、なんとかなりそうな予感の方が大きくなってきた。陽介は小夜子に返事をした。
「小夜子。お前の声、確かに聞こえたぞ。姿の方も全く見えなくなった訳じゃないみたいだし、要するにお前はお前のままだ。ただ、何かがお前を隠そうとしている。それがなんなのか、今はまだ見当も付かないけど…」
陽介は思わず言葉を切った。今、小夜子の不可視の体の上に起こった変化に、目を奪われたのだ。
「…大丈夫、きっとなんとかなる。だって今も見えたんだよ。一瞬だったけど、お前のこと必死に考えてたら、お前の姿が」
陽介の目には、彼の胸に頬を押し付けて身を小さくする小夜子の、肩口から始まり腰の辺りで消えるまで、絞られた光がさっと走ったように感じられたのだった。その、小夜子の肌や衣服が一時的に元の色合いを取り戻す過程は一様には為されずに、復元は途中何かに躓いたように所々で色を散じて、不規則な形に生じた幾つもの灰色の染みの中には、不可思議にも二進数のコードのようなものが見て取れる場合があり、陽介は新たに困惑させられるのであった。小夜子が人のまま不可視性を具えてしまった事態を考える上で、彼は先ず昆虫などに見られる擬態を想定し、次にイカの仲間が環境に合わせて瞬時に体色を変化させる能力を仮定したが、今し方の確認を得るに及んでいよいよ発想が手詰まりになった。しかも、小夜子を苛む現象は、ただ光と不干渉になる以上に恐ろしいものなのだ。彼は思い出して身震いする、小夜子の姿を消去する原因は彼女の内に留まろうとしない、他の者も襲って、過去に遡って小夜子を消し去ろうとしたではないか。人をこれほどまでに厳しく他との関係から切り離し、絶対的に孤立させようとする容赦ない力を、一体なんと呼べばよいのか。それは過去に有り得たどんな暴力よりも理不尽で、強大で、救いようが無く思えた。陽介は歯嚙みをした。小夜子を庇う自分の両腕が、急に頼りなくなった。